鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

生きるにも死ぬにも…(岡田五作先生の色紙)

金曜日、いろいろと書斎の身辺整理をしているとき、ふと 掛けてある色紙に目が留まりました。神学校を卒業するときにいただいたものです。それは当時の校長・岡田五作先生が記した色紙でした。「ただこの一事を務む」と記されています。この色紙を今日まで書斎に掲げています。折にふれてこの色紙を見つめるとき、改めて牧師の原点に導かれるのでした。
この色紙をいただくのは、神学校を卒業するとき、校長の岡田先生が卒業生をお宅に招いてくださり、食事をご馳走してくれました。そのとき色紙を示し、どれでも取るように言われ、私は前記した色紙をいただいたのでした。この言葉は今でも私の指針になっています。いろいろなことに関わらなければならないとき、「この一事」すなわち「牧会」に専念するように励ましておられるのです。色紙を見るたびに、いつも原点に引き戻されているのです。
岡田五作先生と出会うのは、私が高校二年生のときでした。その頃、教会にはKKSという集いがありました。「教会高校青年」の略です。どこの教会もKKSがあり、全国的なつながりもありました。そのKKS全国大会が山中湖で開催され、私は神奈川教区の代表として参加しました。講師が岡田五作先生でした。その先生が挨拶で述べたことが今でも心に残っています。「私のことを皆さんは、岡・田五作といわれます。今日、電車を降りたら、女子学生が乱暴に振舞っていました。ふと、駅名を見ると御殿場(おてんば)と書いてありました」と言われて、一同爆笑したのでした。冗談を言うような先生とは思えないだけに、そのことで心が開かれた一同でした。先生との出会いはそれだけで、講演は意味深く伺いましたが、今は記憶にありません。そのときの主題は「我らはキリストの使者」であり、私が牧師に導かれていく一つの過程であったと思います。次に岡田先生と出会うのは神学校でした。入学したときは金井為一郎先生が校長でしたが、入学してから半年後に召天されました。その後、岡田五作先生が校長に就任されました。
私は神学生の二年目に北海道・余市教会に夏期伝道に行きました。神学生の実習でもあります。一ヶ月の実習は良い勉強になりました。その後、余市教会の牧師から、北海道は冷害で、そのことを新聞で訴えたら全国から見舞金が寄せられており、それを必要とするところに配分したいと言われ、応援に来てもらえないかと要請されました。早速、数人の友人と共に余市教会へ赴きました。その先生は冷害地のために奔走されており、教会・幼稚園を担いながらの活動は本当に大変と思いました。それで私は、神学校を一年間休学して、お手伝いすることを申し出ました。不本意なことであるが、そうしてくれると助かると言われました。早速、その教会の牧師は岡田校長に電話していました。随分と長くお話されていました。電話が終わると、岡田校長はかなりお怒りであるというのです。休学するにしても学校への手続きや支度のために、ひとまず東京に戻ることにしました。その頃、新幹線はなく、青森・函館は船でわたり、青森から東京まで8時間も要する状況でした。長い道中、休学か続けるか悩みながら過ごしたのでした。東京に戻るなり、その足で校長宅へ赴きました。叱られることを覚悟していました。岡田校長はニコニコと笑顔で迎えてくれました。そして、北海道の冷害の実情を聞いたりしました。そして、その労をねぎらってくれたりもしました。結局、私は休学の話は出しませんでしたし、ニコニコしながら応対してくれた先生とお話しているうちに、休学の思いが薄れてしまいました。
「ただこの一事を務む」、数枚の色紙の中からいただいた色紙は、休学の思いが深く心に残っており、まさに私のために書いてくださったと思えたのでした。このことは今でも心に戒めています。牧会以外のことはしてはいけないということです。牧師になっても小説を書いたり、どうも気持ちを広げすぎると反省したことも多々ありました。岡田五作先生のお言葉を原点にして歩むことを導かれているのです。
聖書の言葉
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(ローマの信徒への手紙14章8節)