鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

御言葉を伝える務めを与えられ…(説教者の祈り)

土曜日です。土曜日は明日の日曜日の礼拝の準備の日です。礼拝における説教準備、当日配布する週報作成の作業があります。本当は一日かけて準備をするのですが、今日は駆け足で準備をしました。説教準備を駆け足でするなんて、不謹慎なことです。しかし、午後からしなければならないことがありました。また、鼠が活動し始めました。一時、なりを潜めていたようですが、出没するようになりました。夕食をしていると、近くでごそごそ音がするので、見ると鼠がいるではありませんか。こちらの気配を感じて逃げようとしたとき、仕掛けておいた「ピッタンコ」に尻尾が付きましたが、逃げる力が強くて外してしまいました。夜、寝静まった頃には徘徊して、目ぼしい物を食い荒らしていくのです。それで、今日はその対策をしました。出没するところは流し台と壁の間に隙間があり、そこを出入り口にしているようです。根本的には壁に穴を開けているわけですから、そこを塞げば良いわけです。しかし、そのためには流し台を動かさなければなりません。すると大工事になります。従って、流し台と壁の間の隙間をブリキで塞ぐことにしました。牧師館のいたるところにブリキが施してあります。今までの鼠対策です。この界隈は鼠が多く、だいたい木造の家屋はどこの家も被害を受けているようです。教会・牧師館は木造モルタル造りですが、鼠はたくみに侵入してきます。今回の補修で、しばらくは侵入しないでしょう。しかし、またどこかに穴を作り、侵入してくるでしょう。夜、寝ていると鼠が木を齧っている音で目が覚めてしまうことがあります。鼠も生きるために命がけで侵入してくるわけです。
午後4時頃には補修工事が終わり、明日の日曜日の準備に戻りました。しかし、気持ちがすぐに変えられなくて、仕事の内容を反省し、あそこはこうすべきであった等と反省したりするのでした。土曜日に日曜日の準備以外のことをすると、やはり影響があります。昔、礼拝説教の準備中に、何かの仕事等で中断し、再び説教準備に戻ったとき、心が乱れて集中できないのです。そのような時は、早めに夕食を食べ、早めに寝てしまうのです。そして、午前1時頃に起き、机に向かうのでした。若い頃の思い出ですが、牧師の皆さんはいろいろと苦労しながら日曜日の準備をしているようです。若い頃の取り組みが懐かしく思い出されます。今は、もちろん準備をしますが、約40年も説教準備をしてきていますので、経験が役立っているようです。
日曜日の礼拝で、司会者が牧師の説教について祈る場合があります。「語る説教者に聖霊を注ぎ、御言葉を語らしめてください」とお祈りくださるとき、なんとも励まされる思いです。説教の準備をして、これで準備が出来たとは思いません。まだ、語るべき示しがあるのではないか、そんな思いをもちつつ、一応準備を終えるのです。礼拝が始まり、説教壇から会衆の皆さんを見たとき、久しぶりに出席された方がいることを知ります。準備した説教ですが、その方に語りかけているような方向になってしまうこともあります。しかしまた、説教はすべての人々にお話しているのですが、礼拝が終わると、今日は私のためにお話をしてくださいましたね、と言われたりします。文章は、一度書くと、人格となって動くと言われます。説教も、牧師が語ることにより、聖霊の導きのもとに、神の言葉として、一人ひとりに示されていくのです。召天された佐竹正道さんはお子さん達に、牧師の説教は神の言葉と思って聞きなさい、と諭されていたことを聞いています。
人間として語る礼拝における説教ですが、聖霊の働きがあることを忘れてはならないのです。神様の御旨を説教として語るとき、鼠に邪魔されて十分な準備が出来なかった、なんて決して言ってはならないのです。さあ、準備が導かれました。明日の主日礼拝を厳かな思いを持って迎えましょう。明日は祝福の一日であることを信じつつ。
聖書の言葉
「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」(コロサイの信徒への手紙1章25節)