鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

神の力が与えられ…(祝クリスマス)

クリスマスおめでとうございます。今日までいろいろな集いのクリスマスのお祝いをしました。そして、いよいよ本日がクリスマス、イエス・キリストのお生まれになった日です。2000年の昔、イエス・キリストがお生まれになり、やがて成人して人々に現れたとき、人々に希望を与え、現実に生きる喜びを与えました。イエス・キリストが救い主として現れたとき、その救いの完成は十字架にありました。イエス様は約30歳頃に人々にあらわれましたが、3年後には時の指導者達のねたみを受け、十字架で殺されてしまうのです。しかし、神様はねたみのゆえに十字架で殺されるイエス様の、その死により救いを与えたのです。すなわち、人間は自己満足と他者排除を捨てきることができません。これは人間が誕生したときから、人間に備わった姿であったのです。
旧約聖書の創世記には神様が人間、アダムとエバを造り、エデンの園に住まわせたと記しています。神様は二人に言います。「あなたがたはこの園で何をしてもよい。何を食べても良い。しかし、園の中央の木の実を取って食べてはならない」と戒めました。二人は神様の言われたとおりに過ごしていたのです。ところが蛇なる存在が現れ、「本当に園の中央の木の実を食べてはならないと神様が言ったのか」と言うのです。そう言われると気になるものです。二人は禁断の木の実を見つめることになります。すると、その木の実はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように唆していたのです。思わず二人はその木の実を食べてしまいます。すると二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしたのでした。聖書はこれが罪の始まりとしています。つまり人間は自己満足を遂げるために、戒めがあっても、約束事があっても、何が何でも自分のものにしてしまうのです。この姿は、人間はどうすることもできないのです。分厚い旧約聖書はこのことの戦いでもあるのです。神様は十戒と言う戒めで導きますが、十戒をもっていきながらも自己満足は放棄できないのでした。多くの預言者を送り、神様の戒めに生きるように導きますが、結局は自己満足の姿に戻っていくのでした。それで、神様はイエス・キリストをこの世に生まれさせ、人々を救い、導かれるのです。
人々はイエス・キリストの教えを喜びました。イエス様の教えは現実を神の国として生きることです。神の国は死んでかなたの世界にあるのではなく、今この現実において生きると言うことなのです。自己満足をなくし、他者排除を自分との戦いにおいて滅ぼしつつ生きると言うことなのです。人々はその教えを喜びますが、しかし、どうしても自己満足からは解放されないのです。それで、神様はイエス・キリストが指導者のねたみの故に殺されることになったとき、その十字架の死と共に人間の自己満足・他者排除を滅ぼされたのです。従って、十字架を仰ぎ見ることによって、私の自己満足が滅ぼされたことを知るのです。しかし、人間はすぐに自己満足に生きることになるのです。だからまた十字架を仰ぎ見ます。こうしてキリスト者は常に十字架を仰ぎ見つつ生きるのです。そこに神の国の生きる姿があります。
クリスマスはイエス・キリストのお生まれになったことをお祝いしますが、十字架の救いを与えてくださった救い主として喜び、お祝いするのです。私の救いのためにお生まれになったイエス・キリストなのです。心からお祝いしましょう。
ところで25日のクリスマスは、もはやお祝いの集いはありません。むしろ、静かにイエス様のお生まれになった意義を受け止め、一人でイエス様のクリスマスをお祝いしたいと思います。あなたのためにお生まれになったイエス様のクリスマス、本当におめでとうございます。

聖書の言葉

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です。」(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)