鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

主の僕たる者は…(長内敬一先生のこと)

四国の松山市におられる長内敬一先生からお便りとクリスマス献金が送られました。同先生は今は無任所ですが、04年度までは四国の三島真光教会牧師としてお働きでした。今は充電期間として昨年より無任所になっています。この先生は私が大塚平安教会に赴任した時は神学生として教会に仕えておられたのです。随分と助けられました。
1979年9月に大塚平安教会に赴任しましたが、前任の乙幡和雄牧師は6月で辞任されていました。日本基督教団の幹事に就任されたので、大塚平安教会を辞任されたのです。従って、大塚平安教会は6月、7月の二ヶ月間は牧師がいませんでした。その大事な時、神学生として教会の務めを果たされたのです。赴任したものの、何もわからない私に何かと教えてくれたのが長内神学生でありました。週報の作り方、印刷の仕方、教会員の消息、集会の持ち方等、新任の牧師は戸惑いながら取り組みますが、長内神学生がおられたお陰で、安心して牧会の職務を担うことが出来たのです。
いろいろなことが思い出されますが、クリスマスの時期でもあり、クリスマスにちなんだことを記しておきましょう。今でも懐かしくクリスマスのことを思い出しています。その頃は燭下礼拝(キャンドルサービス)と称していました。長内神学生が企画し、臨場感あふれる燭下礼拝を行いました。大きなクランツを作り、それを天井から吊り下げたのでした。そして、その下には、これまた大きな飼い葉桶を置きました。本物の赤ちゃんを寝かせることも出来るものです。その飼い葉桶の周りにはマリアさん、ヨセフさんを始めとして、羊飼い、博士達がそれぞれの衣装をまとって座っています。クリスマス物語を再現しての燭下礼拝なのでした。物語の役を演じるのは教会学校の子ども達でした。子ども達も衣装を着ていますから、その役の人物として神妙にしているのでした。その周りを会衆が座ります。つまり、飼い葉桶を中心とした礼拝にしたのです。
1982年7月4日、笠倉正道君の葬儀が大塚平安教会で執り行われました。若干21歳の若さで天に召されました。笠倉正道君の証しについては別の日に記すことにいたします。幼稚園の送迎バスを運転された笠倉祐一郎さんのご子息です。葬儀には250名の皆さんが列席されました。礼拝堂の後ろは皆さんは立ったままでした。玄関ホールも集会室もぎっしりと人が立ち、彼の葬儀に列席したのです。その大勢の人を迎えての葬儀の下働きをしたのが長内敬一神学生でした。本当に助けられました。
当時の青年達が随分と長内神学生に励まされています。長内神学生はよく手紙を書きます。決して上手とはいえない字なのですが、青年達に励ましの手紙を送っていました。それにより洗礼に導かれた青年もいるのです。
長内先生が三島真光教会に赴任されたとき、同教会はハンセン病施設と関わりがあり、同先生もふかく関わるようになりました。三島真光教会は火災となり、再建の時にはハンセン病の皆さんから多くの献金が寄せられました。そのような経緯がありましたので、長内先生は全国のハンセン病施設を訪問して交わりを持ったのです。
今年の五月に四国教区の総会に日本基督教団の問安使と出席しました。もしかしたら長内先生とお会いできるかな、と期待していましたが、無任所でもありますので長内先生は出席していませんでした。数人の牧師に長内先生の消息を尋ねますと、一様に口を揃えて長内先生のよき働きを述べるのでした。大塚平安教会の出身牧師が良い評価を受けていることは、とても大きな喜びであります。もうそろそろ充電期間を終えることでしょう。良い教会が与えられ、良い牧者として仕えて頂きたいと願っています。

聖書の言葉
「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。」(テモテへの手紙<二>2章24節)