鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

ともし火をともしながら(終末主日を迎えて)

今日は教会の収穫感謝礼拝でした。まず、子どもの教会が収穫感謝の礼拝をささげました。果物や野菜を前に飾り、神様のお恵みをいただいて歩んでいることを示されました。その後、子ども達は幼稚園に移り、焼き芋を食べました。収穫感謝を実際的に体験したわけです。
教会の収穫感謝礼拝も同じように果物や野菜を前に置きながら、感謝の礼拝をささげました。この日は収穫感謝と共に終末主日でもありました。
本日のもう一つの意義は、収穫に関係しますが、収穫の次は冬枯れでありましょう。そこで、教会の暦は収穫の週をもって一年の終わりとなるのです。本日は終末主日とも言い、世の終わりを受け止める時なのです。カレンダーの終わりは12月31日です。それに対して、キリスト教は収穫感謝日、終末主日をもって一年が終わります。つまり今週をもってキリスト教の一年が終わり、次週からは新しい暦となるのです。新しい暦はクリスマスに関係します。そのことについては次週記しましょう。
今週は終末主日を迎えています。終末とは世が終わることです。世が終わることに思いを寄せるのです。世が終わるということは、地球のおしまいであり、宇宙のおしまいということです。何か絵空事を記しているようですが、地球の始まりがあるのですから、終わりもあるでしょう。箱根の湯本に地球博物館があります。かなり古代のものが展示されています。展示されているものが次第に進化して今日に至っています。そして、さらに進化しながら地球は存続するでしょう。永遠に続くのでしょうか。始まりがあれば終わりがあるのです。それは科学的なことですが、聖書は神様が終末をもたらすと教えています。終末の時には再び主イエス・キリストが現れます。そして、一人一人の生きた姿を尋ねると言われています。良き歩みをした人は祝福へと導かれるのです。すなわち永遠の命が与えられるのです。良き歩みとは、一人一人の存在をしっかりと受け止めて生きると言うことなのです。自分の思いをもって他者を排除することは、主イエス様のお心ではありません。終末を心に持ちつつ歩みましょう。
今日はもう一つの意義があります。毎年11月の第四日曜日は「謝恩日」とされています。謝恩とは隠退牧師に感謝し、また支えることです。牧師として働いてきましたが、いよいよ隠退します。その場合、多くの隠退牧師は家を持っていません。今までは教会の牧師館に住んでおり、自分の家を持つことができませんでした。牧師を辞めたとき、多くの場合、今まで務めていた教会の近くには住まないものです。後任の牧師が働きにくいからです。生まれた故郷に帰ることができる牧師はそんなに多くはありません。ほとんどは借家住まいとなり、子供夫婦と共に住むようになるのです。
日本基督教団には年金局があります。隠退された牧師を支えています。その年金の財源は信徒の献金によります。また、教会と牧師が掛け金を掛けて財源としています。これらの財源だけでは年金の財源を確保するのは困難でありますので、謝恩日を設け、隠退された牧師を覚えつつ献金をささげるのです。隠退牧師を支えるもう一つの取り組みがあります。「隠退教師を支える百円運動」です。毎月、百円をささげて隠退牧師を支えるのです。日本基督教団の1,700の教会がこの運動に加入すれば、財源が潤うのですが、半分くらいしか協力されません。謝恩日献金も同じであり、なかなか全国の教会は牧師の年金について本腰が入らないのです。
当教会の佐竹順子さんが「引退牧師を支える百円運動」の神奈川教区における担当者となっています。神奈川教区は107の教会伝道所がありますが、やはり60%くらいしか加入していないのです。そのため、佐竹順子さんはいろいろな教会に加入を呼びかけています。担当を引き受けられてから随分と協力教会が増えました。100%加入を目指して尽力されています。頭が下がります。
今日は収穫感謝日、終末主日、謝恩日といろいろな意義を覚えつつ過ごした一日でした。
聖書の言葉
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」(ルカによる福音書12章35節)