鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

主のまなざし(少年院での対話 )

月に一度、少年院に行き、入院している少年と面接しています。少年が希望して面接するのではなく、少年院の指導において面接をさせ更正を導いているのです。面接指導をする人々を篤志面接委員と称しています。面接指導は複数で受けることもあり、個人面接もあります。複数で面接指導をするのは、例えば習字、パソコン等の指導をしながら更正を導くのです。私は個人面接で、精神指導ということになります。少年と約1時間の面接を行います。
今、担当している少年は7月から面接を行っており、今回で5回目になります。彼は暴力団に加わり、恐喝等で補導され、今年の1月から少年院に送られたのでした。実は彼の兄もこの少年院に入っていたことがあり、そのときには父と共に面会に来たのでした。そして、今度は自分もこの少年院で生活するようになっているわけです。ニヤニヤしながら言うのでした。
私「暴力団に入っていて、今はどう思う?」
少年「暴力団はみんなから嫌われているし、悪いことでお金をもうけている。だから、もう入らない。」
私「ここを出院して、社会生活をするようになったとき、また誘われたらどうする?」
少年「入らないようにする。」
私「出院すると保護観察になるので、保護司の先生に相談しなさい。」
少年が一生懸命に更生しつつ生きようとしても、阻むものがあるということです。麻薬や薬で刑務所に入り、もう二度と麻薬に手を出さないと決心しつつ社会復帰しますが、気がついたら再び麻薬の生活であった言います。この社会に生きるためには強い意志が必要です。自分とどう戦うかが求められているのです。少年には入院する前に付き合っていた女性がいるそうです。彼女の名前を腕に刺青しているというのです。少年院に送られたことを彼女は知りません。急に彼女から姿が消えてしまったわけです。その彼女を今も思い続けています。
私「会わなくなって、もう、かれこれ一年もたつ。きっと彼女は急にいなくなってしまった君の事を忘れているかも。」
少年「彼女も俺のことを好いてくれていた。」
私「出院して、彼女が別の男の子と付き合っていたらどうするの。一年も前にいなくなってしまった君の事を思い続けているかな。」
少年「よくわからない。」
私「自分が好きでも、自分の気持ちを抑えることも大切なんだよ。」
このような会話をしながら、社会復帰の備えをするのです。少年院に入った頃は、こんなところに入れられた、と思っていました。しかし、日々の歩みの中で、自分が変わっていくことに気がつきます。何よりも忍耐できるようになったことを知るのです。面白くないからと、自分の思いのままに振舞うわけにはいきません。自分でも短気だと分析していたのですが、我慢をし、状況を見つめることができたと言います。
「10月14日に少年院の運動会があり、お父さんとおばあちゃんが見に来た。うれしかった。一年ぶりにあった。お父さんが見ているので、運動会をがんばってすることができた」とうれしそうに少年は言いました。自分を見つめている人がいる。本当はいつも見つめられていたのに、自分がそれを感じなかったというわけです。一年ぶりにあった父、その父は自分を見つめていてくれる。その思いが与えられたことは大きな希望であるでしょう。お母さんは小さいとき亡くなっています。それだけに父のまなざしを深く受け止めることができたのでした。
肉親の家族以上に私を見守っていてくださる存在、主イエス・キリストは私達を見つめ、導いておられます。支えの御手を信じて歩んで参りましょう。
聖書の言葉
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏がなく前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。」(ルカによる福音書22章61節)