鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

歴史を導く神様(季節託児所のこと )

今日は日曜日、朝9時から子どもの教会が開かれ、その後10時15分からは大人の礼拝がありました。子どもの教会は、最近はほとんどの子ども達はお母さんやお父さんと出席しています。以前は小学校に入っても出席し、一人で、または友達と一緒に出席していました。今は小学生の出席は少なくなっています。こうして保護者の皆さんと共に礼拝をささげ、聖書の教えを示されることを喜んでいます。
ところで、今日は19日ですが、三日前の11月16日は教会員の大矢冨士さんが召天された日でした。うっかり、その日を過ごてしまいましたが、今日は少し大矢冨士さんを偲びたいと思います。大矢冨士さんはドレーパー記念幼稚園の前身、季節託児所を担った方です。ウィニフレッド・ドレーパー先生に見込まれて横浜の都会からこの地にやってきたのです。1913年生まれで、21歳のときに日本メソジスト横浜教会で洗礼を受けました。横浜教会は今の横浜上原教会の前身でもあります。その頃、ギデオン・ドレーパー宣教師が同教会を中心にして伝道しており、この界隈にまで足を伸ばして伝道していたのです。農民福音学校を開き、青年達に教養を与えていたといわれます。父上のギデオン・ドレーパー宣教師と共にこの地を訪れていたのが、娘のウィニフレッド・ドレーパー先生であったのです。先生は農繁期で忙しい時期になると、子ども達は親から構って貰えず、所在無く過ごしている姿をふかく受け止めました。そこでドレーパー先生は季節託児所を思いつくのです。そして、託児所で子ども達の世話をする人として大矢冨士さんに白羽の矢を立てたのでした。横浜で育ち、いわゆる田舎を知らない大矢冨士さんでしたが、ドレーパー先生に促されるに任せ、この地に入ったといわれます。以下、「季節託児所について」と題して大矢冨士さんの証しを紹介します。

当時私は横浜戸部在住の姉の家におり、姉が出席しておりました戸部教会(今の横浜上原教会)へ出席しておりました。あるとき、牧師を通して、ドレーパー先生が農繁期託児所を開くにあたり、どうしても先生が決まらないとのことで手伝ってもらえないかとのお話がありました。何とお返事したか覚えはありませんがお引き受けして、寝具等と共に先生とトラックに揺られて降りたところが大塚の教会でした。それから3キロ位はなれ、山坂を越えた上栗原の集会所で託児所が開かれ、何度か働かせていただいたと思います。オルガンもなく、遊具もなく、何をどうして一日すごしたのか、今考えても良くわかりません。井戸もなくて近所の農家からもらい水でした。「うるわしき朝」に始まり、「さようなら」をうたって家に帰り、まだ親達が畑や田んぼから帰宅していない時には又遊びに来るような事もあったように思います。年齢もまちまちですし、暑い夏の一日、お昼寝をしてもらうのが何よりでした。今と違ってお布団があるわけでもなく、唯畳の上に寝たと思います。一番困ったのは「ハエ」です。真黒に見えて胸が悪くなるようでした。何度かののち、栗原と同時に上草柳でも託児所を開きました。そのときに、流行性結膜炎がはやり、託児所は午前中何にもできず、ただ眼医者さんのように洗眼するところになってしまい、おわりには家族の人たちも洗ってもらうために、子供と一緒に来るようになって大変だった事を覚えています。もし栗原にも病気が出たら閉鎖すると言うことでした。幸いにも栗原には何事もなく無事終わりました。その流行も「ハエ」の媒介かと思いました。以後、栗原も上草柳も中止になって大塚で開くようになり、何度か働きました。

大矢冨士さんは2001年11月16日に88歳で召天されました。ドレーパー記念幼稚園の前身でもある季節託児所を担ってくださり、幼児教育の基礎を築いてくれたのです。また、お連れ合いの大矢幸男さんと共に大塚平安教会の草創期を担い、今日の教会へと導いて下さったのでした。心から感謝しています。
聖書の言葉
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(コリントの信徒への手紙<一>3章6節)