鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

不思議な神様の御業(落ち葉掃き )

落ち葉拾いが盛んな季節です。「落ち葉拾い」といえば美的に感じられますが、要するに落ち葉掃きです。毎日、幼稚園の庭に降り積もるがごとくに落ち葉が散っています。大きな欅の木が二本そびえています。夏は木陰を喜ぶものの、秋ともなると落ち葉の掃除が大変です。幼稚園の先生達は毎朝のように落ち葉掃きをするのでした。
欅の根元付近の太さは臼ができるほどになっています。秋になると、誰言うともなく、切り倒してしまえば、こんなに苦労しなくても済むのに、ということでした。枝払いをするとかの助言をいただくのですが、それすら渋る園長なのでした。落ち葉掃きは大変ですが、それ以上に緑陰のお恵みがあります。ドレーパー記念幼稚園といえば、欅の木でもあるのです。いわば幼稚園の象徴ともなっています。
どこかの市町村で落ち葉のプールを作ったとか報道されていました。プールの中に様々な落ち葉をいれ、子ども達が水遊びをするかのように、落ち葉と戯れると言うことでした。当園の欅の落ち葉だけでもプール遊びができるでしょう。実際、先生達が落ち葉掃きをしているとき、掃き寄せた落ち葉に飛び込んでいる子どももいるのでした。邪魔にしないで、それなりに遊びの場ともなるでしょう。落ち葉の香りは自然をよりよく知らせてくれます。なんとなく心が休まる香りでもあるのです。
自然の恵みはこの落ち葉にあることを知らされます。山の木々は紅葉から落ち葉となり、山の斜面を埋め尽くします。その落ち葉が冬の寒さから木の芽を守るのです。暖められた地面に護られて、木々は冬をすごすのです。そして、春となり、一葉もなかった枝に芽が膨らみ、若葉に芽生えていきます。そしてまた、あの美しい緑の葉に変わっていくのです。一見、落ち葉と思っていますが、その働きはなんとも大きいものなのです。その自然の育みを人は学んでいます。霜枯れの畑に落ち葉を与えるのです。畑は落ち葉のぬくもりで冬を過ごし、春の種まきを待つのでした。
幼稚園の落ち葉を喜んでいる人がいます。畑に使うといわれます。そのため、幼稚園の片隅に積み上げて置くのです。この界隈は次第に畑が見かけられなくなりつつありますが、落ち葉の恵みをよく知っておられる方でありましょう。畑もそうですが、落ち葉が無くなりつつあります。つい最近まで、近くの相鉄線踏み切り際には山林がありました。都会ではなく地方的色彩をよりよく示されると思っていました。ところが、今は山林がありません。造成され、マンションができるようです。山林が次第になくなっていくことは寂しい限りです。
落ち葉を求めて山林に行くとしたら、綾瀬の城山公園があります。少し前までは、自然のたたずまいそのものでした。この城山公園に幼稚園から歩いて行ったのです。今なら無理だと思ってしまうでしょう。子ども達はよくも歩いたものです。現在のように造られたという思いがありません。秋の散策は落ち葉を十分楽しんだものです。座間の谷戸山公園もまだ自然が多く残っているでしょう。落ち葉を踏みしめて歩きたいものです。
幼稚園の欅の木のお陰で、わざわざ出かけなくても落ち葉の恵みを知らされます。落ち葉こそ神様の恵みであり、大切な宝物であることを子ども達と共に受け止めていくでしょう。

聖書の言葉
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」(マタイによる福音書21章42節)