鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

日夜叫び求める声(書記三選就任挨拶 )

日本基督教団は「新報」を発行し、教団内のいろいろなことを報道しています。先日の第35回教団総会で三役が再選され、早速、就任の抱負を書くようにと依頼されました。なりたくて教団書記に三選されたのではありません。もう既に二期4年努めたのですから解放されたかったのですが、三選された議長、副議長に対して、書記も一緒に三選されないと足並みがそろわなくなるので、やむなく受託しました。従って、抱負はないのですが、書記という立場で少しでも意味のある務めをしようと思っています。それで、新報の原稿が今日の8日までであり、県の幼稚園検査が終わるまでは書く時間がありませんでしたので、今日になって書き、急いで贈ったのでした。ついでにブログに載せれば、今日のノルマを果たせるので、ここにも載せておくことにしました。
「叫べざる叫びを聞きつつ書記を担う」
「書記に三選され、戸惑いつつ受託しました。総会の二日目に私の書記就任が要請されました。しかし、私はすぐに応じず、保留とさせていただきました。私の書記三選はかなり厳しいと思っていたたからです。教会の牧会はもちろんですが、学校法人幼稚園の理事長・園長を務めています。さらに教会が関わる綾瀬ホームとさがみ野ホームの牧師としての関わりがあります。そして神奈川医療少年院には篤志面接委員であり、八王子医療刑務所教誨師を努めています。この上、さらに教団書記を務めてきました。私が言うまでもなく、皆さんも大変であると思われているのです。改めて私が置かれている状況を考えたとき、幼稚園、施設、少年院、刑務所の皆さんは、自分の叫びが出来ない人々なのです。
毎日、園児と接するとき、子ども達のいろいろな声が聞こえてきます。その声を真実聞きたいと願っています。次年度の入園受付を十一月一日に行いました。この数年、入園児が減少しています。予想はしていましたが、やはり入園希望者が少ない現状です。卒業生のお母さんが、心配して電話をよこされました。話しているうちに、当園の巷におけるうわさなども教えてくれました。子ども達を勝手にさせている、ということでした。要するに躾もせず、子ども達が騒いでも放置しているということらしいです。いつの間にか、そんなうわさが広まっているようです。教育方針に「遊びを奨励する」ことをうたっていることが、自由勝手に遊ばせていると理解するのでしょう。来年度は障がい児が全体の三分の一にもなります。この数字もまた当園を選ばない理由なのでしょう。私たちはこの教育を続けていかなければなりません。子ども達の叫びを、声に出ない叫びを受け止めたいからです。
毎週、知的障害者の施設に出かけて礼拝をささげています。木曜日は綾瀬ホーム、金曜日はさがみ野ホームです。礼拝は三十分程度ですが、前後の時間に利用者の皆さんと交わりを深めることが何よりの喜びです。礼拝において讃美歌はヒムプレーヤーにより賛美しています。そのプレーヤーを礼拝の場に持っていく人、終わったら元の場所に納める人が異なっています。それぞれのお仕事として、とても大事にしています。たまたま誰かがプレーヤーに手をかけようものなら、大変なことにもなるのです。いつも運んでいる人が、風邪で礼拝に出ないときなど、数人が争って運ぼうとするのです。園長が割って入り、一人一人に説得するのでした。プレーヤーを運ぶことに彼らの叫びがあるのです。
少年院では少年と面接しつつも、少年は自ら話そうとはしません。私がいろいろ聞きながら少年の思いを引き出しているのです。彼らの叫びが放火、盗み、薬へと気持ちが向いてしまうのです。刑務所でも同じことです。「自分が山に登っていたら、此処にはいなかった」と、教誨をしながら登山の話に及んだときに受刑者が言いました。神様に向かって叫べない人々です。
私が関わっているいろいろな状況の人々の声、叫びを聞き、教会で受け止めていきたいのです。そのような姿勢で書記の三選を受託しました。また二年間、重い職務ですが皆さんの祈りに支えられて務めたいと願っています。」
聖書の言葉
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(ルカによる福音書18章7節)