鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

神の約束を待ち望みつつ(忙中閑詩 3 )

今日は朝、幼稚園の門に立ち、登園する子ども達また保護者の皆さんに挨拶をしました。子ども達は元気に朝の挨拶をしてくれます。4月、5月頃は下を向いて園長の前を通り過ぎていったものですが、喜び勇んで登園する子供たちなのでした。短い会話ですがお母さん達ともお話しが出来て、門に立つことは大事なことなのです。門に立てるのは月、火、水曜日であり、木・金曜日は施設の礼拝に朝から行くので立てません。この三日間が楽しみでもあります。
今日は月に一度の年長組会堂礼拝です。10時に教会の礼拝堂に集まり、礼拝をささげます。もう既に覚えている主の祈りの内容について、少しずつ示されています。主の祈りを祈りつつ成長する子ども達に神様の祝福が豊かにあることをお祈りしています。
今日は特段のことがないので、例によって昔の詩を紹介しましょう。

「たとえば…」
たとえば、
見えて、聞こえて、話しても、
人の心はわからない。
きのうの人ときょうの人、
同じ心の同じ人、
いつも友なる人なのに。

たとえば、
まごころこめて仕えても、
人の心はわからない。
感謝のことばとののしりが、
耳に聞こえて、目に見えて、
同じこころの人なのに。

たとえば、
うちのめされて倒れても、
人の心はわからない。
慰めみちた主のことば、
愛と自由のみこころに、
いつのまにか立ち上がる。

たとえば、
見えて、聞こえて、話しても、
人の心はわからない。
けれども、主のみこころ示されて、
真実見えて、声を聞く、
真実友と語り合う。

(1981年1月25日 週報)

聖書の言葉
「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」
(ペトロの手紙<二>3章13節)