鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

腹を神とする中で(銀座の恋の…)

昨日は銀座に出かける用事があり、銀座にたたずんだことで私と銀座のことなどを書いておこうと思いましたが、10月10日ということで、「目の日」に思いを馳せてしまいました。最近、何かと銀座に行くことがあり、有楽町駅を降りたとき、いつも立ち止まっては変わり行く銀座のたたずまいを見つめています。今も駅前では大きなビルの工事が行なわれています。
あの頃、すなわち約40年前の面影は随分となくなっています。神学校に入り、2年目のときに、銀座4丁目にある教文館・クリスチャン・センターに出入りしていました。教文館の中にあるNCC文書事業部でアルバイトをしていたのです。センターにはキリスト教関係の事務所が入っており、日本基督教団もここに事務局を構えていました。1970年、西早稲田日本キリスト教会館が完成し、ほとんどのキリスト教関係の事務局が移転しました。今は日本基督教団といえば西早稲田となっています。私が教文館に出入りしていたのは1965年頃ですから、銀座におけるクリスチャン・センターの終わり頃になるのでしょう。実は、教文館には高校2年生の時に行っています。横浜以外は出かけたことがないような私ですが、高校生の準備会が開かれました。その頃、KKS(教会高校青年会)が全国的にあり、全国大会が開かれていました。神奈川教区はまだ東京教区の神奈川分区でしたので、東京教区から参加する高校生達の準備会がありました。神奈川分区からは横浜指路教会の女子高校生と清水ヶ丘教会の私でした。その女子高校生は教文館を良く知っているようで、私を案内するように連れて行ってくれたのでした。今から思い出すと、エレベーターがあったのに、細い階段を九階まで上っていたような思い出を持っています。
NCC日本キリスト教協議会)文書事業部は、その頃、「月刊キリスト」という雑誌を発行していました。日本基督教団の「信徒の友」が創刊されるのは1964年ですから、その前から発行されていた「月刊キリスト」はかなりの部数が発行されており、創刊間もない「信徒の友」よりは購読数が多かったのでした。そこでの雑用をする仕事でありました。雑誌が発行されると、購読している都内の教会には持参していました。その頃は宅急便なるものはなく、郵送すればよいのですが、少しでも早く、お届けすることが目的でした。それまでは銀座に出たことはなく、おろおろしながら歩き回ったものです。お届けするといっても、一冊や二冊ではなく、かなりの部数を抱えて教会へ配布するのです。もちろん車で配布するのでなく、風呂敷包みを抱えて電車やバス、地下鉄等に乗りながら配るのです。配布が終われば、再び事務所に戻り、風呂敷に包んでは出かけるのです。配布する部数を間違えてしまい、再び配布した教会へ行ったりしました。雑誌が発行されると、こちらから発行所へ取りに行きます。編集部の皆さんは発行した雑誌を早く見たいと待ち構えているのです。今なら製作した会社が持ってくるのでしょうが、今とは考え方が逆になっていました。地下鉄に乗ったのもその頃が初めてですし、銀座線はなんか変な匂いがしていたことが印象に残っています。地下鉄はほかに丸の内線があり、地下鉄はその二つの線でした。
用事を済ませて事務所に帰ると、編集部の人が、「さっきあんたの先生が来て置いて行ったよ」と告げます。私の机の上には、もはや解けているアイスクリームが変な形で置かれているのでした。冷蔵庫がなかったのかな。先生というのは出身教会、清水ヶ丘教会の倉持芳雄牧師です。先生は教団の伝道委員をしており、教団に来ると必ず事務所に寄ってくれました。私がいるときもありますが、使い走りで留守が多かったと思います。いつも寄ってくれては励ましてくれた牧師には、本当に力を得ていました。
銀座といっても特別な意味があることを記しているのではありません。ただ、私の神学校の学びの時代に銀座でアルバイトをしていたことが、今の自分の基礎となっていると思っているのです。すなわち、華やかな状況にいながらも、示された道を進むということでしょう。
聖書の言葉
「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとしています。」(フィリピの信徒への手紙3章19節)