鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

思い上がることのないように、とげが…(涙を拭きつつ)

今日は「目の日」といわれています。10と10を横に並べると眉毛と目に見えるからなのでしょう。3月3日は「耳の日」、8月7日は「鼻の日」と言われていますが、「口の日」はいつでしょうか。以前10月10日は「体育の日」といわれ、運動会等が各地で行なわれていました。私は、この日はもっぱら丹沢の山登りをしていました。今は時間的にも余裕がなく、体力的にも行かれなくなりつつあります。
「目の日」というとき、書いておきたいのは、私の目の、大げさに言えば障害のことです。私と接している皆さんはお気づきでしょう。私はいつも右の目の涙をふいています。右目の涙腺の障害があり、出て来る涙をいつも拭いていなければなりません。小さい頃、涙腺の障害を治すため眼科に通いました。涙腺に針金を通し、1時間くらいはそのままにしておくのです。痛いし、つらい時間でした。随分と通いましたが、結局治りませんでした。今なら技術も進化しているので、簡単に治るのかも知れません。小学校の頃でした。以後、目の障害のために眼科へは行っておりません。生まれてからこのかた、ハンカチで右目を拭き続けているのです。
目を拭くためにハンカチが必要なので、デパートなどに行くと、おのずとハンカチ売り場にたたずんでいるのでした。そのため一体何枚くらい持っているのでしょう。あたかも趣味みたいにハンカチを買うのでした。趣味ではなく実用的なのです。そのような事情をご存知の方が、ハンカチを下さるものですから、さらに多くなります。改めて感謝いたします。以前はお葬式に出ると、会葬御礼ということでハンカチをいただいたものです。私には結構ありがたかったのです。ところが、最近の会葬御礼の品物が変わってきました。フェイスタオルであったり、お砂糖であったりします。フェイスタオルは、目を拭くのに使いにくいのです。ポケットに入れればかさばるし、人差し指を使いながら涙を拭くので、フェイスタオルは細かいことができないのです。ハンカチにこだわる訳です。こだわるといえばグレー系のハンカチです。
いつも涙を拭いているものですから、いろいろと善し悪しがあります。善いほうで言えば、人様のお喜びの時、またお悲しみの時、涙を拭いているのですから、もちろん「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いて」(ローマの信徒への手紙12章15節)いるのですが、感情がなくても相手に合わせることができるのです。なんか変な言い方ですが。困るのは、ここは涙を拭く場面ではないのに、涙を拭くことでした。神奈川教区の教区議長を務めましたが、議長席にいて議事をつかさどっているときに涙を拭かなければなりません。議場の皆さんは議長が泣いていると思うのです。泣く姿は敗北を意味する場合があり、本当に困ってしまいます。幼稚園の園長をしておりますので、時には保護者の方とお話いたします。それも何かの問題があって、園長としての意見を述べるときに涙を拭くものですから、弱い園長の姿でもあるのです。
夏は暑さのために涙腺が太くなるようで、涙の出具合はいくらか減少します。しかし、冬ともなると涙腺も寒さのために細くなるのでしょう。冬は涙の季節でもあるのです。比較的早くから老眼になり、今は遠近両用の老眼鏡をかけています。一昨年、暗く見えるようになり、眼科で見てもらいましたら白内障でした。まず、片方の手術を行い、一ヵ月後にもう片方の手術をしました。手術をしましたら、世の中がこんなに明るい事を知りました。日帰りの手術ですから、今は随分と楽になったということです。
眼鏡を拭き、涙を拭き、ハンカチは欠かせません。連れ合いから洗濯をするのでハンカチを出すように言われますが、出すときは何十枚と出すものですから、いつも叱られています。こうして私は涙と戦いながら人生を生きています。これしきのことで障害などとは言えません。しかし、私なりに苦労していることをご理解いただくために記しておきました。むしろこれしきの障害をうれしく思っているのです。
聖書の言葉
「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。」
(コリントの信徒への手紙<二>12章7節)