鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

学びと交わりの集い・修養会(富士山の麓で)

「学びと交わりの集い」の二日目は早天礼拝から始まりました。修養会で朝の礼拝は、今は食事後の8時30分か9時頃から始まるのが一般的になっていますが、食事前の7時からの礼拝は珍しいのかも知れません。まさに修養会です。会場の「かえで荘」の周辺は会社等の保養所や別荘地帯であり、少し歩くと広い草原があります、しかし、草原には入ることができず、道に立ち止まっての礼拝でした。ほとんど通る人はありませんが、それでも何人かの人が、集会をしている間をぬって通り過ぎていきました。道に立ち止まっての集会ですが、目の前には雄大な富士山がそびえています。岩肌まで見ることのできる距離でした。頂上には少しばかり雪をかぶっているようです。天気もよく、間近に見ることのできる富士山に、なんとなく安らぎが与えられるのでした。このような状況の中での早天礼拝です。賛美の歌も高らかに、奨励者のお話も心にしみます。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(詩編121編)。
この富士山には若い頃、二度登りました。一度目は二十歳頃でありました。御殿場の二の岡にキリスト教主義学校の研修所があり、そこで青年会の修養会が開催されました。その時、修養会に参加する前に、富士登山をすることになり、岩崎隆牧師は同じ青年仲間であり、他の青年等と5人で登ったのです。それから2、3年後に別の友人達と登りました。いずれも夜の登山です。頂上につく頃に日の出となるのです。誰もが、日の出の感動を持つものです。暗闇の中で、東の空が赤くなってきます。太陽が出た瞬間に世の中がパット明るくなるのです。大きな声で経を唱える人もいます。大きな歓声を上げる人々、クリスチャンがいれば讃美歌を歌ったでしょう。あれ、わたし達はクリスチャンではないのかな。偉大な神秘さに何かをしたいという思いがこみ上げてくるのです。日の出はどこで見ても感動ですが、やはり高いところからの日の出はひとしおなのでしょう。
会場のチェックアウトは午前10時ですので、食事後はすぐに分団協議を行ないました。主題につき、また発題を聞いての感想等を話し合いました。その後は全体協議であり、分団で話し合ったことの報告がありました。そのまま閉会礼拝があり、予定の時間に終了しました。
今回の主題は「キリストに押し出される」、聖書は「神は言われる。『あなたを見放すことも、見捨てることもない』」(ヨシュア記1章5節)でありました。主題の説教兼講演では、ヨシュアモーセの後を受け、聖書の人々を率いて約束の地へと向かうについて、神様がヨシュアを励ましていることを示されました。いつも不平と不満ばかりを述べている人々の先に立つには、荷が重かったのです。それでも神様の励ましがあり、使命を果たすヨシュアでした。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。強く、雄々しくあれ。」との励ましに大きな力が与えられたのです。修養会の開会礼拝ではヨシュア記24章14節からの言葉により示されました。すなわち、今まで神様の導き、恵みをいただき歩んで来ました。今、約束の地に住むとき、態度をはっきりするということなのです。拝みたいと思う神々を選びなさい、しかし、わたしとわたしの家族は今まで導いてくださった神様を信じて生きる、と宣言します。その時、人々もヨシュアに倣い、神様を信じて生きる告白をするのです。閉会礼拝ではヨシュア記23章6節以下から示されました。この世の中で生きるとき、神様を信じない人々と共に生きるのであり、その場合、「主を固く信頼せよ」とヨシュアは人々に言ったのでありました。わたし達も現実を生きるとき、信ずる道が違うでしょう。その社会の人々と共に生きながら、自分歩むべき道をひたすら歩むことが必要なのです。こうして、学びと交わりの集いではヨシュアの信仰と主に従う姿に、現代に生きるわたし達が励まされたのです。しかし、何よりもわたし達を励ましているのは主イエス・キリストなのです。十字架がわたしを導くしるしなのです。
聖書の言葉
「十字架の言葉は、わたしたち救われる者には神の力です。」
(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)