鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

学びと交わりの集い・修養会(証しを示されつつ)

「学びと交わりの集い」が日曜日の午後から月曜日にかけて開催されました。昔からの言い方をすれば「修養会」です。数年前から名称を変更しました。修養会というと、如何にも信仰の修養であり、堅苦しく身構えてしまうというのです。修養会はむしろ講演を聞き、学びを深め、そして交わりを深めるのであるから、文字通り「学びと交わりの集い」としたのでした。しかし、つい「修養会」と言ってしまいます。短く言えるし、昔から言いなれているからです。その「学びと交わりの集い」が今年は山中湖で開催されました。毎年、教会での開催と郊外での開催と隔年にしております。教会で開催する場合は、日曜日の午後から夕刻にかけて半日で行います。郊外で開催する場合は、日曜日から月曜日にかけての連休に行われます。
今年は山中湖にまで足を伸ばしました。ビラ「かえで荘」が宿でありますが、修養会委員会がインターネットで検索して決めました。日曜日の礼拝が終わって、乗用車に分乗してすぐ出発しました。途中、足柄パーキングで昼食を取るということです。私は綾瀬ホームが「ほのぼの広場」という催しを行っているので、そちらに顔を出して向かいました。東名高速は順調に流れていましたが、御殿場出口手前4キロも渋滞になっていました。山中湖方面が大渋滞となっているのです。今日は連休でもあるし、朝から秋晴れで、行楽日和でもあります。こんなに渋滞するなんて、思っても見ませんでした。結局、私が到着したのは、途中寄り道がありましたが、夕刻6時前でした。予定では4時開会であり、他の人たちも前後して遅れて到着しました。それでも5時45分から開会礼拝をもって始めることができたのでした。
夕食を食べた後は二人の方が発題をしました。主題講演は、実は朝の礼拝説教をもって兼ねることにしたのです。説教と講演とは随分と異なります。修養会委員会が、時間の都合もあり、修養会に参加できない皆さんのためにも説教と講演をかねて欲しいとの要望であったのです。説教は講演ではありません。聖書を通して神様の御心を示すことであり、御言葉により自分自身が打ち砕かれ、新しい自分へと変えられるのです。それに対して、講演は指針を示すことでありますが、語る者の思いが大きな内容でもあるのです。講演は人の思いであり、説教は神様の思いと言うことであるのです。従って、説教と講演を兼ねて行うことはできないはずですが、やってしまいました。どうしても説教的な講演になってしまいましたが。修養会であり、後に報告書を作成するので、主題講演の内容をプリントします。それで、今日の礼拝で説教兼講演をプリントして配布するため用意しました。しかし、配布するのは止めました。説教は礼拝において聴くものであり、読むものではありません。礼拝をささげる者は神に向かい、御言葉に向かっているのです。説教者と会衆が一体となってみ言葉に向かうとき、聖霊が下り、御言葉が一人ひとりに受肉されていくのです。一人ひとりが聖霊の導きのもとに新しい歩みへと導かれていくのです。礼拝にはそのような力が働きます。書かれた説教を読んでも礼拝における御言葉との出会いがないのです。書かれた説教は頭で理解しようとするからです。いろいろな人の説教集が出版されます。確かに感銘深く読みますが。参考となり印象深く残りますが、御言葉との出会いはないと思っています。そのように思いますから、私は説教集なるものは出版しないつもりでいます。礼拝が勝負であるのですから。
二人の方が発題しました。それぞれ自分の信仰の原点、置かれている状況、そして明日に向かう姿勢を主にあってお話されました。本来、その後は懇談会なのですが、遅く始まったのでプログラムを変更し、交わりの時間とされました。むしろ頭を使った交わりのひとときで、これでは「学びと学びの集い」ではないかという人もいましたが、楽しいひとときでした。夜はそれぞれ集まって遅くまで四方山話をされたようです。私の部屋のすぐ前に自動販売機があり、随分と遅くまで利用する人がありました。私は一人部屋であり、追われるような思いでブログを書き込んでいるのでした。
聖書の言葉
「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」(エフェソの信徒への手紙4章25節)