鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

燭台の光(佐竹正道さんの召天記念日に)

本日は佐竹正道さんの召天4周年記念日であります。何よりも当教会員でありますが、信仰を基として綾瀬町長や神奈川県議会議員等の政治の世界で働き、綾瀬ホームやさがみ野ホームの施設長等の福祉の分野で働きました。召天記念日にあたり、一周年記念礼拝の説教を読み直し、歌の世界でも信仰を現されているので、いくつかを紹介して記念としたいと思います。

佐竹正道兄召天一周年記念礼拝説教「ともし火を掲げて」(2003年9月23日)
佐竹正道さんが天に召されて、早くも一年となりました。改めて佐竹正道さんを心に思うとき、私は、自ずとこの聖書が示されるのです。燭台の上に置かれた佐竹正道さんのともし火が光り輝いているのです。政治家として、福祉の事業家として、信仰者として生きた人生は燭台の上に置かれたともし火でありました。そのともし火により多くの人々が喜び、支えを与えられたのでした。
主イエス様はたとえばなしをしています。ある金持ちが、たくさんの作物のしまう倉がなくなり、新しく大きな倉を造ります。そして、自分自身に言うのです。「さあ、これから何年先も生きていくだけの蓄えが出来た。一休みして、食べたり遊んだりして楽しもう」と。神様はその人に言うのです。「あなたの命は今夜にも取り上げられる」。
どんなに大きな倉があろうとも、目は輝きません。物質が豊かでも目は輝かないのです。私達の目が輝くのは、心が喜んでいるときです。それも、常に喜んでいるのです。一時的な喜びはいつもあるでしょう。その一時的な喜びは、あくまでも一時的であり、輝く目にはならないのです。常に目が輝いているのは、常に心が喜んでいるからです。何で、そんなに喜び続けるのでしょうか。それは主イエス・キリストを信じているからです。主イエス様と共に歩む人生は、力であり、恵であり、希望であるのです。従って、どのような状況に生きても喜びがあり、輝く目となるのです。その姿は、ともし火のように、人々を照らすのです。
佐竹正道さんはともし火としての存在でありました。しかし、一人佐竹正道さんだけではなく、私達一人一人もともし火の人生なのです。私のともし火を誰かが受け止めています。私もまた誰かのともし火を受けて導かれているのです。とりわけ、佐竹正道さんはいろいろな分野でともし火を燭台の上に置いたのでした。
ともし火を燭台のうえに置く佐竹正道さんは、お祈りを大切にする人でした。まず
神様に頭を下げ、お祈りをします。自らの思いでなく、神様のお心をいただくのです。そこにすべての原点があったと言えるでしょう。そして、それが今でも燃え続けている佐竹正道さんのともし火なのです。

教会生活雑詠
本棚に文語の聖書古びゐて あまたの朱線母の残せし
スミ夫人の丹精さるる花鉢の 横にどくだみ白き十字架
あの方の感謝の祈りリズムあり 主の祈りの如き詩編読む如
この週も悔い改めの数多き 説教聞きつつ悔いつ祈りつ
「順子宅」の家庭集会十余年 第四木曜日春夏秋冬
聖餐のワイン甘口否辛口かと 想いし想い叱りて消せり
今朝は召天者記念礼拝 良き師良き友写真でまみゆ

聖書の言葉
「ともし火をともして、それを穴倉の中や、升の下に置くものはいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」(ルカによる福音書11章33節〜34節)