鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

家ごとに集まって…(家庭集会のこと)

毎週木曜日の午前は家庭集会が開かれます。毎週としていますが、第一と第五の木曜日は開かれていません。第二木曜日は座間地区、第三木曜日は教会周辺地区、第四木曜日は綾瀬深谷地区の集会が開かれています。この他にも相鉄沿線地区の家庭集会も開かれていましたが、今はお休みにしています。本日の5日は第一木曜日ですが、海老名地区の集会が久しぶりに開催されました。久しぶりのこともあって、19名の皆さんが出席されたのでした。家庭集会は教会の礼拝、集会とは異なり、家庭における集会ですから、まさに家庭的な集いであります。聖書を読み、奨励をし、讃美歌を歌います。その後、信仰や人生についての懇談をするのです。お食事をいただきますが、負担になる場合もあり、お茶だけにしましょうということになりましたが、いつの間にか食事が出されるようになっています。本当に終わってからはお茶だけでよいのにと思っています。
聖書の使徒言行録には原始教会について記されています。「信者達はみな一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」(使徒言行録2章44節-)。つまり、最初から家庭集会があり、共に賛美の歌をうたい、食事を共にしていたのです。食事を共にすることは、絆が深められるということでありましょう。そうなると、やっぱり食事付家庭集会なのかな。
家庭集会は毎月開かれていますが、8月と12月はお休みになります。12月は家庭集会の皆さんと教会婦人会の皆さんが合同でクリスマスの集いを開くのです。牧師のクリスマスメッセージを聞き、共にお食事をいただき、楽しい交わりを行います。コールシャロンの皆さんも出演してくれるので、美しいコーラスを聴くこともできるのです。
日曜日の教会の礼拝には、家庭の事情もあり、出席できませんが、週日の家庭集会なら出席できるのです。日曜日は家族がいるので、礼拝に出席するといってもなかなか困難でありましょう。お連れ合いがキリスト教には関心がないとか、反対する場合もあり、自分だけが教会に行くことはできないのです。家庭集会であれば週日であるので、お子さんが学校に行っているし、自由に出席できるのでした。こうして家庭集会に出席しつつ信仰に導かれ、洗礼を受けた方もあります。従って、家庭集会はとても大事な集会となっています。信者の方でも家庭集会には出席しても、礼拝にはなかなか出席できない人もいるのです。
昔、私の家でも家庭集会を開きました。姉が清水ヶ丘教会の教会員であり、牧師を招いて集会を開いたのです。実は叔母がやはり清水ヶ丘教会員であり、家庭集会を開いていました。叔母の家は近くにあり、集会が開かれる度に私の母も出席していました。そこで歌われる讃美歌、「いつくしみふかき」は母の愛唱讃美歌にもなりました。母は私を教会学校に通わせ、牧師の道をも支えてくれましたが、だからといって自分がキリスト教の信仰を持つということはありませんでした。最後まで浄土真宗の信仰を持っていたのです。母の葬儀は仏式で行ないましたが、友人の牧師達が通夜に来てくれたので、母の遺影の前で「いつくしみふかき」を歌ってもらいました。さすがは牧師達で、7、8名の牧師達はそれぞれのパートで歌い、美しい合唱をささげてくれたのです。家庭集会でキリスト教に接した母でもあったのです。
家庭集会に出席される方が、信者になるようにとは思っていません。それぞれの人生において、聖書の言葉が一つの支えとなってくれればと願っているのです。あるいは、私の母のように、信者にならなくても、讃美歌を喜び、日々歌いつつ過ごすなら、家庭集会の大きな意味であると思っているのです。一つの集会では、比較的お年寄りが多く、聖書のお話の後は、世間話が多いのですが、それはそれでよい出会いのひとときなのです。
聖書の言葉
「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」
使徒言行録2章44節-)」