鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

主に仕えて生きる(神の庭・サンフォーレの礼拝)

神の庭・サンフォーレの礼拝担当が10月3日であり、昨日は伊藤雪子さんの証しを紹介しているので、本日はサンフォーレについて記すことにしました。神の庭・サンフォーレは老人ホームです。今年で8周年を迎えています。キリスト教の老人ホームを建設するため、有志と共に取り組みましたが、結局は建設することができず、老人ホームを運営する企業と思いを一つにして設立されたのが秦野の神の庭・サンフォーレでした。老人の入居、生活については株式会社サンフォーレが行いますが、私たち有志は「支える会」を立ち上げ、キリスト教の信仰をもって入居される皆さんを支えるのです。そのため、主事を送り、礼拝や訪問の世話をしてもらうことにしました。礼拝は月に2回行なわれています。いろいろな牧師が礼拝を担当しています。また、讃美歌を一緒に歌う集いが開かれ、ボランティアがお話し相手になったりしています。ここではキリスト教がベースになっていますから、思いっきり信仰を現すことができるのです。そもそもキリスト教の老人施設を建設することになったのは、信仰を持ちつつ老人ホームで安らかに過ごすことが目的でした。老人ホームに入居するとき、いろいろな宗教の人々がおり、お線香の臭いやお経の声と共に、落ち着かない生活であるのです。まして、讃美歌を歌うことははばかれるのです。そのためにも、ぜひ、キリスト教の高齢者施設を造ることになったのでした。
前回、礼拝を担当したのは、半年前でした。半年ぶりに入居されている皆さんとお会いしたとき、やはりお年が増したという印象でした。それでも、皆さんは大きな声で讃美歌を歌われていました。讃美歌は神様に向かって歌っているのです。讃美歌は祈りでありますから、大きな声でお祈りしているのです。力強さを感じました。皆さんは今日まで信仰の人生を歩んできたのです。礼拝に出席し、教会の皆さんと信仰のお交わりをし、共に奉仕をしながら歩んできたのです。ご苦労様でしたと言いましょう。終(つい)の住処(すみか)が祝福の日々でありますようお祈りいたします。
ところで大塚平安教会からは、この日は私の他に3名の皆さんが出席しました。車で一緒に行きましたが、いろいろなお話をしている中で、一人の方が、「私の信仰は煙管(キセル)みたいです」と言われるのでした。今は聞かれない言葉でもありますが、若い頃、キセル乗車といっておりました。悪いことなのですが、例えば、かしわ台駅から大和駅までの定期券を持っており、横浜駅からかしわ台駅まで乗るときに、大和駅までの切符を買わないで、横浜から一駅分の切符を買って乗るのです。結局、最初と最後の切符で、その間の区間は無賃乗車ということになります。それをキセル乗車と言っておりました。煙管(キセル)はタバコを吸うものです。キセルの先は金具でできており、タバコの葉を詰め込み、吸い口も金具でできています。その間は金具ではありません。つまり始めと終わりが金具であり、その間は金具ではないということです。信仰がキセルと言われた方は、若い頃に洗礼を受けられました。その後、結婚され、子どもができて育児に専念するようになり、教会から遠ざかってしまったのです。しかし、最近になって神様のお導きを示され、教会に出席するようになったとき、還暦を過ぎた年齢となっていたのです。昔、金具としての信仰が与えられ、随分と時を経て、今は金具の信仰が与えられているというわけです。立派な信仰ではないでしょうか。昨日の伊藤雪子さんのように77年目にしてイエス様と出会い、祝福の日々が与えられたように、キセルの信仰であっても、今は祝福の日々なのです。その間の人生は、終わりの金具の準備の時ではなかったでしょうか。
そんなお話をしながらサンフォーレに着き、皆さんと一緒に礼拝をささげました。人生を信仰の喜びをもって歩んでいる皆さんです。77年目、キセルの信仰、いろいろな信仰の姿があるでしょう。どのような信仰でありましょうとも、今、信仰に生きる喜びを持っているのです。
聖書の言葉
「あなた達は、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」(ヨシュア記24章15節)