鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

祝福の呼び名(自分の名前に誇りをもちつつ…)

ついに彼は自分の名前を言いました。幼稚園では9月になると園長が、登園する子ども達の出席を取っていることについては9月11日の日記に記しました。なかなか自分の名前をいえない子がいます。実は、今日はじめて名前を言った子どもは4歳児で入園しました。今は年長組になっています。昨年の出席取りでは一度も名前を言ってくれませんでした。今年も言わないねと思っていました。そしたら、今日は自分の名前を言ったのです。言わない子であると思い込んでおり、彼が園長の前に立ったとき、「おはよう、お名前をどうぞ」と言いつつ、既に出席簿に記していました。そしたら彼の声が聞こえてきたのです。驚きというより、感動がこみ上げてきました。「ちゃんと言えたね」と彼の顔を見ながら言いますと、笑顔でうなずいていました。今までも言いたかったのです。もう少しゆっくりと待ってあげればよかったのかもしれません。名前を言えない子どもは他にもいますが、でもいつかは言えるようになるでしょう。今日の彼のように一年後には言えたのですから。ひよこ組、三歳児の中には苗字と名前を言えないというより、知らない子がいます。いつも家では○○ちゃんと言われているので、出席取りのときにも「○○ちゃん」と言います。それはそれで自分の名前を誇り高く言ってといることになるでしょう。
自分の名を言うということは、自分の存在を表していることになります。教会的に考えると信仰告白でもあるのです。自分がイエス様の救いによって生きていることを言い表すことが信仰告白です。キリスト教の信仰を持って生きるとき、名前を持つものとして、名前には全存在が示されているのです。しかし、信仰を持って生きている自分を人には言えない場合もあるでしょう。洗礼を受けてキリスト教の信仰に生きながらも、家族は知らないことがあります。ひそかに信じているというわけです。従って、その人は自分の名を言っても信仰者は伏せられているのです。自分の名前は自分のすべてを表しています。
カトリック教会では赤ちゃんが生まれると、親の希望もありますが幼児洗礼を授け、洗礼名をつけます。例えば、テモテ・鈴木伸治という具合です。プロテスタント教会ではこの風習はありません。洗礼名は信仰をもって力強く生きた人たち、聖人といわれる人たちの名前です。従って、洗礼名は自分の人生の励みにもなるのです。自分につけられている洗礼名の聖人のように生きることが希望となります。そのような名前の意義がありますが、私達の名前は親が祈りつつ付けたものです。その名前に私の人間性が一体となっていくのです。自分の名前に誇りを持つことです。自分の名前を人前ではっきりと言いたいのです。
最近、両親を埋葬している寺から知らせがありました。近日、墓地を修繕するというのです。そんなに広くもないところに、かなりの墓地があります。周囲の外壁や道路を整備するということでした。そのために墓地を利用している家から寄付金を募るというものでした。寄付をされた家に対しては、戒名は院号を与えるというのです。そして、寺の本堂には寄付をされた人々の名前を書き込むとのことでした。寄付という功績に対する院号というものなのでしょうが、割り切れないものがあります。仏教ではどうして死んでしまうと別の名前にするのでしょう。生前の名前で埋葬したほうが、いつまでも亡くなった方を心に思うのです。そして、戒名は上下関係のように受けとめられます。
死んでからの姿ではなく、生きているものとして、自分の名前に誇りを持ちつつ歩みたいと願っています。自分の名を告げることは、自分の存在を自分で確認していることなのです。

聖書の言葉
「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、
人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」(創世記2章19節)