鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

聖書は有益な書物(いろいろな聖書)

水曜日の夜は聖書研究・祈祷会が開かれます。週日の夜7時30分からの集会は、出席するのはなかなか大変ですが、通常は5~6名、少し多いときで7~8名の皆さんが集います。聖書は旧約聖書新約聖書を隔週に読んでいます。前週は旧約聖書エレミヤ書を読み終えました。エレミヤ書は52章までありますが、隔週ですから月に2回、1章ずつ読み、読み終えたときは3年を要していました。出席者の皆さんは学びつつ読み終えた喜びを持った次第です。
今日は新約聖書のマルコに福音書15章を読みました。読んだ後に懇談しましたが、一人の方が共観福音書の同じ内容の記事を表にまとめているのを示されました。マタイ、マルコ、ルカによる福音書に書かれている同じような内容の聖書を並べてみるのです。表現の仕方が異なり、その作業から新しいメッセージが示されるのです。そのことからいろいろな聖書について話が及びました。聖書は原文は一つですが、それぞれの訳があります。日本語聖書でもいくつかの訳があります。それらを参照することは、聖書を理解するうえで参考になります。しかし、いろいろな訳に接して混乱してしまうこともあります。聖書は一つの聖書を見つめ、そこから示しをいただくのが自然のようです。
大塚平安教会で今使用している聖書は新共同訳聖書というものです。私が中学生の頃は文語訳聖書でした。そして、その頃に口語訳聖書が出版されました。このまましばらく口語訳聖書でした。しかし、口語訳聖書には今では不快語とされる言葉があり、それを修正する意味でも新共同訳聖書が出版されたのです。聖書の変遷を知るために並べてみましょう。

マタイによる福音書6章25節以下のそれぞれの聖書。
文語訳聖書:(マタイ傳)この故に我なんじらに告ぐ。何を食ひ、何を飲まんと生命のことを思い煩ひ、何を着んと體のことを思ひ煩うな。
口語訳聖書:(マタイによる福音書)それだから、あなたがに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
新共同訳聖書:(マタイによる福音書)だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。

口語訳と新共同訳はほとんど似ていますが、それでも言葉の使い方が異なっています。要す
るに新共同訳聖書は今に生きる人々への聖書の言葉なのです。今を生きる私たちが、聖書を読むことによって示しをいただくのです。その意味で、その土地の言葉による聖書も意味があると言えるでしょう。岩手県気仙地方はケセン語という言葉です。その地方の言葉で山浦玄嗣さんが「ケセン語聖書」を訳しました。同じ箇所を引用してみましょう。

ケセン語聖書:(マッテァがたより)んだから語(かだ)っておぐ。自分(われ)ァ命(いのぢ)ィ繋(ちな)く゜べって、何(なに)ィ食(く)う…べかよ、何ィ飲むべがよって案ずだり、自分(われ)ァ体(かばね)ェ囲(かご)うべって、何ィ着んべがよって苦(く)ゥすんなんな。

私たちには読みにくいかも知れませんが、その土地の人々にはよりよく示される言葉でありましょう。聖書は私に示される言葉です。日々、聖書に向かうほどに日常の言葉になっていくでしょう。
聖書の言葉
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(テモテへの手紙<二>3章16節)