鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

互いに仕えなさいと示されつつ…(スミさんの誕生日)

今日は連れ合い・スミさんの誕生日です。何はともあれ今日まで神さまに導かれてきたことを感謝しましょう。スペインにいる羊子、東京の中野にいる星子からは電話でお祝いのメッセージがありました。近くにいる百合子が、誕生日ケーキの相談を電話でしてきました。しかし、このお祝いの日なのに、私は会議で夕刻から会議に出かけるのです。スミさんも、もう誕生会なんかしなくても良いと言っています。百合子ががっかりするのは、もうそんな年齢ではないのですが、誕生日ケーキのお相伴に預かれないからなのです。今までは必ず家族の誕生日にはケーキが用意されてお祝いしていました。しかし、子ども達のそれぞれの成長の中で、家族が集まることが困難にもなってきたのです。夏の家族旅行も昨年までしていましたが、今年はとうとう行かれませんでした。親のために子ども達が都合を付けてくることを、親として望まなくなってきてもいるのです。でも、来週は星子が来ることになっているので、百合子はケーキの大きさを考えているようです。
このブログで私たち夫婦のことを書くなんて、気後れがしていますが、時々聞かれるのは私達の出会いでした。幼稚園の聖書に親しむ会で懇談しているうちにも、夫婦の出会いを言わなければならない状況になったりもしました。話題を変えて、うまく逃げたこともあります。でも、今日は書いておくことにしましょう。言えないで人生を終わってしまわないためにも、スミさんの誕生日にあたり、私達の出会いを書いておくことにしましょう。
神学校で学ぶこと6年でした。最終学年を迎えたときは29歳になっていました。その頃になると、もちろん今後の進路のこと、どのような教会に赴任するか、課題にもなっています。それと共に結婚のことも、少し気がかりではありました。先輩達からよく言われたことは、教会に赴任するときには結婚していくべきであることでした。そんな思いでいるとき、結婚の話が舞い込んで来たのです。友人の岩崎隆牧師が紹介するというのです。彼とは清水ヶ丘教会で成長した仲でした。中学生頃からの友人でもあります。その彼が私よりも先に神学校に入ったことについては、随分悔しい思いをしたのですが、私は彼より3年遅れで神学校に入ったのです。従って、私が最終学年で学ぶ頃は、彼は高輪教会の副牧師を経て開拓伝道をしていたのです。それで、高輪教会にいたスミさんを私に紹介したのでした。もう一つのルートがあって、清水ヶ丘教会の婦人がスミさんと明治学院という職場で共に働いていたので、私をも知っている婦人の親子がスミさんに私という存在を勧めたのでした。スミさんは良く分からないままに、岩崎牧師夫妻に相談に行ったのでした。岩崎牧師は、高輪教会の教会員であった彼女を、今まで考えてもいなかったようですが、これは良い取り合わせと確信し、私たちの出会いの場を設定したのでした。ここまでにしましょう。
銀婚式は過ぎて13年を経ています。今日まで私と共に牧師の道を歩んでくれいているスミさんには心から感謝を述べましょう。私たち夫婦は全く性格が反対でありますが、お互いにそれを認め合っているようです。いつも言い合いをしていますが、だいたいは私が引っ込みます。時には私だって引っ込まないことがあります。スミさんの良いところは、人様のことなら我が家を犠牲にしてまで走り回るということでしょう。子ども達も良く知っていて、お母さんがいないのは、どなたかのことをしているという暗黙の了解がありました。
スミさんが昨年の6月にはスペインにいる羊子のもとで一ヶ月過ごしたことは、何よりのプレゼントであると思っています。青い空、広い通り、きれいな公園、歴史の建物等、時々食事をしながら話してくれるのですが、私は、人の話を聞くのが下手で、鼻の先で聴いていると言い、叱られるのです。今はそんな夫婦の生活です。もちろん、二人で教会の御用をしています。
スミさんについては7月29日にも記しています。
聖書の言葉
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕えあいなさい。」
(エフェソの信徒への手紙5章21節)