鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

名画となって子ども達が…(幼稚園の図書館)

金曜日の夜、NHKテレビは迷宮美術館の番組を放映している。今日は「竹久夢二大正ロマンの世界」でありました。見るともなく見ていましたが、芸術を作り上げる意気込みなるものを感じました。意気込みというより、人生を苦しみながら、その人生から生まれた竹久夢二の世界でありましょう。伊香保竹久夢二美術館がありますが、二度ほど訪れています。一度は家族で見学しましたし、一度は友人達と訪れたのでした。そして、二度の見学の後は、いずれも足を伸ばして星野富弘美術館にも行ったのでした。ちょうど今、昨日の日記で紹介しましたように、横浜で星野さんの展覧会が開催されています。再び鑑賞したいものです。
私の美術への関心は思いのみで、そんなに深い鑑賞はないようです。青年の頃から美術鑑賞はしていました。上野の西洋美術館にも足を運びましたし、家が横浜市金沢区にありましたので、歩いて鎌倉に行き、散策の中には必ず鎌倉近代美術館に寄ることが含まれていました。そのように美術鑑賞をするものの、絵を描くことについては全く力がありません。従って、鑑賞の方もいい加減であり、美術館に行っても一点一点鑑賞することなく、瞬く間に周って館を出てしまうのでした。そんな程度の美術鑑賞なのですが、遍歴は持っているのでした。
幼稚園の図書館にはミレーの絵画を五点掲げています。かなり昔になりますが、教職員旅行で山梨にいきました。清里を散策し、その後は山梨美術館に寄りました。この美術館にはミレーの絵が常時展示しています。それで、複製画を買い求め、幼稚園の図書館に掲げたのでした。しかし、どうもミレーの画は幼稚園の子ども向きではないようです。「晩鐘」「落穂拾い」「種蒔く人」「グフニスとクロエ」「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」等名画ですが、子ども達には馴染まないかもしれません。いつか取り外そうと思っているうちにも今日になっています。図書館は預かり保育の小羊組に使用しており、展示品のためにボードを掲げる必要から、ミレーの画を一枚とりはずしました。その画は「夕暮れに…」でありますが、改めてその画を見つめることになりました。この図書館は小羊組が使用していますが、もちろん子ども達の本との出会いの場所でもあります。金曜日にクラス毎に本を借りに来ます。本をあさりながらも無意識のうちにミレーの世界にいるわけです。そして、この図書館はお母さん達のサークル活動や父母の会・けやきの会が使用しています。決して、改めて鑑賞はしてないにしても、ミレーの画が四方に掲げられていますので、その世界にいることになります。ミレーの世界はいずれも聖書が背景になっているのです。
例えば、「落穂拾い」は聖書の教えがあります。畑で数人の女性達が麦の落穂を拾っています。実際、そのような光景があるのでしょう。この女性たちは畑の人ではなく、畑を持たない人たちなのでした。麦刈りが終わった後に畑に入り、落ちた穂を拾い集め、生活の糧にしているのです。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫の落穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」(聖書・レビ記19章9節)。西洋の落穂拾いの背景には聖書の教えがあるのです。「晩鐘」にしても、一日の農作業が終わり、働くことのできた喜びを、夫婦が畑の中で祈っています。日々の生活の中に祈りがあることを示しているのです。
この図書館で「聖書に親しむ会」を開いています。お母さん達と園長が聖書を読んでは懇談しています。ある日、ミレーの画に話が及びました。暗い感じだし、取り去ることを伝えました。「そんなことはありません。無意識のうちにミレーの画に養われています」とのご意見がありました。なんか励まされた思いでした。幼稚園の子ども達のふれあいは、絵に描くとしたら、ミレーの世界のように、イエス様の教えがそのまま画になっていると思うのです。一人ひとりがお友達を受けとめて過ごしています。この幼稚園には名画がたくさんあると思っています。
聖書の言葉
「子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決して入ることはできない。」(マルコによる福音書10章15節)