鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

老人は夢を見る(居眠り人生?)

車を運転しつつ、聞くともなくラジオが聞こえています。車を運転するときは大方ラジオをつけています。一つは眠気覚ましであり、一つは情報を得るためでもあります。それでも眠気が催すことがあり、そういう時は停車して少し休めばよいのですが、そのまま半居眠りで運転してしまうことがあります。あぶない、あぶない。眠気を抑えるガムやミントを口にします。当面はシャキットするのですが、すぐに眠くなります。一番よくないのは食事後の運転です。毎月第四木曜日は綾瀬の深谷地区・佐竹順子さんのお宅で家庭集会が開かれます。集会が終わるとお昼ご飯をいただきます。ご用意くださる食事と共に、出席の皆さんも一品のお料理を持ってこられるので、宴会を思わせる食卓になるのでした。控えめに食べても、それぞれ口にしないと、せっかく皆さんがご持参くださったのでいただくのです。12時過ぎには失礼し、今度は八王子医療刑務所に向かうのでした。約1時間20分位を要します。お腹はいっぱいであるし、午睡の時間でもあるし、ついうとうととしてしまいます。あぶない、あぶない。
眠くなるということでは、だいたい電車に乗ればすぐに寝てしまいます。私が電車に乗る時間帯は朝夕のラッシュ時ではありません。横浜や新宿方面に行くときです。相鉄線かしわ台駅から横浜に向けて電車に乗ると、大和駅くらいまでは覚えていますが、その後は寝てしまうのです。「よこはま、よこはま」と女性の声が聞こえてきて目が覚めるのでした。新宿方面というのは、教団事務局に行くためで、大和から小田急線で向かいますが、ロマンスカーに乗ります。快適で確実に座れるし、座りながら車窓を楽しむことになっていますが、楽しんだことは一度もありません。座席に座るとすぐに眠くなり、気がつくと新宿についているのでした。目的地が終点であるときは良いのですが、新宿発のロマンスカーに乗り、大和で降りることになっているのですが、何度か藤沢まで行ってしまったことがあります。車掌さんが回ってきたので、寝過ごして大和駅で降りられなかったことを告げると、笑いながら、藤沢まで止まりませんから、そこから引き返してくださいと言われるのでした。
どうして眠くなるのでしょう。つらつら思い出してみること、学生時代まで遡ります。神学校の講義で居眠りしていましたし、礼拝で説教中に居眠りをするのでした。神学生の頃、神学生は奉仕教会を決め、実際的に学ぶのでした。朝は教会学校の椅子並べや子ども達と体で交わり、その後の礼拝は結構疲労がたまっているのでした。奉仕教会として出席していた教会は、会堂がなく、応接間が礼拝堂になっていました。従って、ベンチではなくソファーなのです。ソファーに座って説教に耳を傾けるとき、なんかいつの間にか眠りに誘われているのでした。説教者の口調が眠気を誘うようで、淡々と語り、ほとんど例話もなく、ひたすら聖書のメッセージであったのです。その教会の牧師は神学校の教授であり、卒論指導教授であり、さらに私たち夫婦の仲人でもありました。そのように常に指導されていたので、説教の展開、口調等もよく似ていると人から指摘されるのでした。私の説教中に居眠りをしている姿を見るにつけ、やはり私の説教は指導教授に似ているのだと思うのでした。
居眠りがでる、年をとったから居眠りするということとは関係ないようです。教会や幼稚園の職務、またいろいろな職務は常に神経を集中しています。そういう中で、神経を休めるときが、私にとっての居眠りになっているのでしょう。年をとったとは思いませんが、しかし、昔に比べ居眠りの回数、時間が多くなってきました。やはり、若くはないのだから気をつけなさいと自戒しなければなりません。
聖書は眠りの中で神様のお心が示されるいくつかの事例を示しています。例えば、創世記に記されるヨセフ、また少年サムエル等は眠りの中から御心を示され、大きな働きへとみちびかれたのでした。そうであれば、居眠りを多くし、神様のお心を示されたいと思うのです。
聖書の言葉
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2章17節)