鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

耐え忍びつつ(宮城県沖地震を経験して)

今日は防災の日です。1923年に関東大震災が起き、10万人の犠牲者がでたと言われます。1960年に9月1日を防災の日と定め、備えが叫ばれるようになりました。実際、昨日の31日の夕刻に震度4の地震が起きました。震源地は東京湾であり、相模大野や厚木の山際で震度4なのでこの界隈も同じような震度であったでしょう。地震の国と言われるほど地震がいつもあり、震度4で大きく揺れても、その後は普通の生活でもあるのですしかし、改めて災害に対する備えの思いが深まったでありましょう。私たち家族は宮城県沖地震を経験しているので、地震に対して強い恐れを持っています。
宮城県沖地震のとき、最初に余震がありました。それも結構大きく揺れました。三番目の百合子は3歳頃でした。余震のとき姿が見えないので、連れ合いが心配し、思い当たるところを探しました。教会の隣はおもちゃ屋さんであり、そこにいたという訳です。地震だというのにおもちゃ屋さんにいたと言うことで叱られた百合子は、泣きながら私のいる二階の書斎にきました。しばらく泣いていましたが、やがて寝入ってしまいました。私もそのまま書斎で執務していましたが、その時揺れたのです。ガタガタと縦に揺れました。とっさに、これは大きいと察知しました。そばに寝ている百合子を抱きかかえて階段に向かったときはおおきく横に揺れていました。階段に来たとき、階段が蛇のようにくねくねと曲がってうねっていたのです。その階段を手摺に捕まりながらおり、庭の大きな楓の木の下に逃げ込んだのでした。そのときにはもう地震がおさまっていました。家に入ってみましたら、まずピアノが部屋の中央まで動いていましたし、食器類が割れて散乱していました。書斎に行ってみると、大きな本棚が横に倒れていました。この本棚は特別仕様で、幅が6m、高さが2.5m.もあるのです。その本棚が倒れたあたりに百合子が寝ていたわけですから、抱きかかえて逃げなかったら、潰されていたでしょう。ほんとに一瞬のできごとでした。それからが大変です。ガス、水道、電気が止まってしまいましたので、人々は一斉に食品店に殺到しました。まず、パンをと思い手を伸ばすと、その前にさっと取っていく人がありました。食品店は瞬く間に売り切れとなりました。私は教会の皆さんが心配で、車で教会員の皆さんを訪ねました。特にお年寄りで一人暮らしの方が心配です。その方の所に行くと、ちょうど畑仕事をしているときで、地震でひっくり返ってしまい、しばらく起き上がれなかったと言われました。その後、数件の家に行ったとき、先生は小さいお子さんがいるのだから、私たちより家に居てあげてくださいと言われて帰宅したのでした。このときから飼猫のクロがいなくなったことは既に記しています。
地震の怖さを経験しているので、少しの揺れでも敏感に察知していたのですが、綾瀬に住むようになり、揺れに関しては反応しなくなりました。教会・牧師館はすぐ前が道路であり、ゆるい下り坂になっています。そして、信号がありますから、大きなトラックが制動しつつ止まるわけですが、ズシンズシンと道路を揺らしながら止まるのです。牧師館はいつもその揺れを感じていますので、地震なのかトラックなのか分からなくなっているのでした。
幼稚園では年に二回の避難訓練をしています、火災の避難訓練地震避難訓練です。教会も緊急時の対応について検討を始めました。礼拝中に地震が発生した時の対応、また不審者進入等への対応等、常に心がけていなければならないのです。
昨日の綾瀬ホーム、本日のさがみ野ホームの礼拝で、防災の日を迎えるので、備えについてお話しました。そして、何よりも終末の備えについてお話したのです。世の終わりと共に、私達の人生の終わりを迎えるとき、神様に祝福される人生であったか。神様に調べられますから、毎日の生活でお友達と心を共にし、互いの姿を受け止めつつ過ごしましょうと聖書から示されたのでした。
聖書の言葉
「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイによる福音書10章22節)