鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

心の貧しい人々(教誨師として生きる)

毎月第四木曜日の午後は刑務所に赴く日です。7月の教誨の時は女性のみで男性の教誨ができませんでした。つきに一度の教誨なのですが、7月に赴いたとき、いつもの部屋が使用中であり、先に女性の教誨をすることになりました。女性と男性とは隔離されており、女性の教誨の部屋は確保されています。女性は一人の希望者でしたが、約40分間お話しました。ところが女性の教誨が終わっても、男性の教誨の部屋はまだ使用中でした。やむなくその日は休会にしました。従って、今日は二ヶ月ぶりに男性の皆さんと会いました。月に一度の教誨を楽しみにしている皆さんなので、7月のお休みは本当に申し訳ないと思いました。今日は五人の希望者があり、一緒に聖書を読み、読んだ聖書についてのお話をします。その後は聖書について、キリスト教について、人生について等の話になります。初めてキリスト教にふれた人が多いようですが、中には教会にいったことがあるという人もいるのです。
私が教誨師を引き受けたのは1994年からでした。それまで担当していた知り合いの牧師が退任することになり、後任を神奈川教区に依頼してきたのでした。本人ももちろん神奈川教区に所属していたので教区に依頼するのは当然なのですが、本来は東京教区西支区に依頼しなければならなかったのです。なぜならば八王子医療刑務所は東京教区になるからなのです。いずれにしても神奈川教区に依頼してきたので、すぐに対応しなければならず、私が担当することになったのでした。一つの理由は、担当を引き受ける2年くらい前までは横浜保護観察所の保護司を担当していました。その頃は我が家の子ども達もまだ中学・高校生でありました。保護司の担当は保護観察に処せられた少年達を更生させることであり、そのため月に一度は保護司に会いにきます。そして生活状況を報告するのです。ある日のこと、訪ねてきた保護観察の少年と私の娘が家の玄関で会ってしまいました。高校生になっていますが、中学時代の同級生であったのです。お互いに気まずい思いをしたわけです。少年達は大方この界隈の居住であり、今後も同じようなことがありえるのでした。保護観察の少年も保護司の家には来にくくなるのです。それで、保護司の職務を退任したのでした。そのように保護司の経験があるので、教誨師の選任に対してはすぐに私を指名したのでした。
教誨は宗教を通して受刑者の更生を導くものです。そして、教誨は無理に受けさせるのではなく、本人の希望であります。従って、キリスト教教誨を希望する皆さんは、聖書のお話を聞きたいし、キリスト教について知りたいのです。求めて教誨を受けるので、イエス様の救いのメッセージをはっきりと示すことができるのです。お気の毒なのは、教誨の時間には必ず係官が部屋にいます。自分では望まないお話を聞くことも考えられる訳です。しかし、中心は受刑者ですから、イエス・キリストを信じて生きることが、どんなにか祝福であるか、繰り返しお話しているのです。
この刑務所に大塚平安教会の皆さんを伴って訪問したことがあります。クリスマスの時期でした。教会員に声楽家がおり、聖歌隊の皆さんとでコンサートを刑務所で開いたのでした。そして、そればかりでなく、交わりのためにもゲーム等もしたのでした。結構多くの皆さんが出席しました。そのため、係官も警備のために多くいました。歌のリクエスト等はむしろ係官がするのでした。交わりも興に乗ったようです。今までゲームをして楽しむ機会はなかった皆さんです。またお腹を抱えて笑うなんてことはない状況の皆さんでもあるので、良いひとときでした。再びこのような企画を持ちたいと思っていますが、刑務所に教誨師以外の人が入るのは困難でもあります。約半年前から訪問する人の名簿を提出します。いろいろな部署でチェックを受け、ようやく許可されることになるのです。
更生を目指して服役している皆さんを励まし、導いてあげたいのです。
聖書の言葉
「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書5章3節)