鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

冷たいか熱いか(ホームの皆さんの礼拝)

幼稚園の夏期保育が23日、24日、25日に行なわれています。そして、今週から綾瀬ホームとさがみ野ホームも開かれます。今日の木曜日は綾瀬ホームの礼拝があり、朝の礼拝に赴きました。3回のお休みでしたが、週に1回なので三週間も皆さんと会わなかったのです。そんなに長いことお休みであったので、皆さんは礼拝を忘れているのではないかとも思いました。とんでもありません。皆さんは再開するのを心待ちにしていたようです。朝、佐竹敬園長がホームを回り、利用所の皆さんに声をかけるときにも、今日は牧師先生来るか、と問われたというのです。利用者の礼拝は9時からです。いつもは8時20分頃につき、礼拝の準備をします。準備というのは、歌う讃美歌が布に書かれているので、今日歌うべき讃美歌を用意するのです。その準備をするためにホールにいくと、必ずお手伝いする人が現れます。布の讃美歌を画鋲で止めるのですが、前回の画鋲がまだついたままです。その画鋲を取り、自分の手のひらに乗せ、私が画鋲止めをしやすいように、手を差し出してくれるのです。ホールの椅子並べは利用者の皆さんがしてくれており、8時30分からの職員礼拝には少し時間があります。それで、利用者の皆さんがいる一階の団欒室にいきます。皆さんはテレビを見ています。テレビを見ながら職員が血圧を測ったり、熱を測ったりしているのでした。利用者の皆さんが座っている椅子に私も割り込んで座ると、何かと話しかけてきます。6月の花の日訪問が忘れられなく、今度いつ来るかと尋ねます。幼稚園の子どもは今は何をしているか、喉を切ったの治ったかと聞くのでした。喉を切ったと言うのは声帯ポリープを手術したことでもあります。約10年も前になりますが、二ヶ月あまり礼拝を休ませていただきました。その時、喉の手術が喉を切ったことになり、いまだに切った喉は大丈夫かと安否を尋ねてくれる利用者がいるのです。
職員礼拝は20分くらいで終わります。利用者の礼拝は9時からですから、ホールについてもまだ10分くらいは間があります。その間は利用者の皆さんと雑談しています。後からホールに入ってきた人が、一番前の列に座りたいのですが、もう既に空いている席がありません。前に座りたいんだよ、と言うと譲ってくれる人がいるのです。譲った人は少し後ろの席に移ります。「前に座らないと、讃美歌が見えないし、話も良く聞こえない」と言っていました。それだけ礼拝に思いを寄せていることを示されるのでした。
明日はさがみ野ホームの礼拝ですが、8月12日に召天された利用者が思い出されます。Tさんは79歳で神様のもとに召されました。さがみ野ホームは1979年8月に開設されますが、その年の11月にはホームの利用者となります。私も同じ年の9月に大塚平安教会に赴任し、同時にさがみ野ホームの嘱託牧師になりましたから、Tさんと共に27年間礼拝を一緒にささげてきたのです。このTさんも礼拝には熱心であり、私のお話中もしきりとうなずき、思わず声を出してしまうのです。「そうですよね」と言い、自分の思っていることと同じだと言うのでした。すると周りのお友達がいっせいに注意します。中には激しく怒って、お話中に牧師に話しかけたことに対する抗議をするのでした。礼拝が終わると、私のところまで歩み寄り、「わたしのことをへんなふうにいうんですよ」と報告します。あるいは、お話の内容がとても良かったと言うのでした。声がまたひときわ大きいことも、良い面でもあり、お友達から批判される原因にもなっているのでした。明日からのさがみ野ホームの礼拝にTさんがいないことはさびしい限りです。Tさんは確かに礼拝中に牧師に話しかけたりしましたが、それは礼拝に熱心な姿でもありました。一生懸命に私のお話にうなずいてくれたTさんに励まされたようなものです。利用者の皆さんは、はっきりと気持ちを表してくれます。面白ければ笑ってくれるし、心にしみればうなずいてくれもするのです。つまらないお話はあくびすらいたします。その利用者の皆さんにより、私のホームにおける礼拝説教が培われたと思っているのです。
聖書の言葉
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。」(ヨハネの黙示録3章15節)