鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

この囲いにいない羊たち(キリスト教主義学校の生徒達)

来客の合図があり、玄関に行くと、男の子とお母さんがおられました。キリスト教主義の学校に入っており、学校からこの夏休み中に、どこかの教会の礼拝に出席するよう促されているのです。今度の日曜日に出席したいと言うので、ぜひどうぞと勧めたのでありました。教会はいつでも、どなたでも入れますから、わざわざ断りに来られなくても良かったんですよと言い、礼拝の開会時間をお知らせしたのでした。東京のキリスト教主義の高等学校に通っている。キリスト教主義の学校は、生徒がこの夏休みにどこかの教会の礼拝に出席するように勧める。学校によっては礼拝出席表を渡し、出席した教会の証明をもらうように指導しているのである。そうなると毎週礼拝に出席しなければならず、生徒達も大変である。綾瀬市におじいちゃん・おばあちゃんの家があり、日曜日にかけて遊びに来る。日曜日なので大塚平安教会に出席し、牧師から出席した証明をしてもらう。家は川崎であり、いつもは近くの教会に出席し、そこで証明してもらっている。この前の日曜日、子どもの教会が始まる前に、その子のおばあちゃんが教会に来られました。実は次の日曜日は、どうしても家族で旅行せねばならず、教会には出席できないと言われる。それでお願いがあると言われるのです。今日の日曜日は家の近くの教会に出席するのであるが、その後すぐにこちらの教会に出席するので、次の日曜日の出席にしてもらえないでしょうか、とのお願いでありました。要するに、今日の日曜日に二つの教会の礼拝に出席するので、一つは次週の礼拝の分にして欲しいという訳です。承知してあげました。毎週礼拝出席記録を残すために涙ぐましい努力ではありませんか。おそらく近くの教会では教会学校に出席はし、急いでこちらの教会に来れば、礼拝の途中からでも出席できるのです。そして、おばあちゃんが言われたとおりに、礼拝にはその子とお母さんとおばあちゃんが出席しているではありませんか。感心しました。学校に言われたとおり、毎週の礼拝に出席する努力は見上げたものです。
キリスト教主義の学校はカリキュラムの中で礼拝の出席があります。夏休みのように長いお休みになると、どこかの教会の礼拝に出席するように指導するのです。学校もなるべく市内、県内の教会の牧師を招き、礼拝の説教を依頼するのです。依頼されて横浜にあるいくつかのキリスト教主義学校の礼拝でお話をしたことがあります。一千人前後の生徒達の前でお話をするのです。これは中学や高校の場合です。大学の礼拝にも招かれたことがありますが、大学の場合は礼拝出席が義務ではありません。従って、広い礼拝堂は三々五々、ほんとにまばらの出席であるのです。それでもキリスト教主義の大学として礼拝は続けなければなりません。学校の礼拝で思い出すのは、前任の教会・宮城の陸前古川教会で牧会している頃、宮城学院のクリスマス礼拝に招かれました。中高の礼拝で一千人の生徒にお話をしました。その後、全員がハレルヤ・コーラスの合唱をしました。私は講壇にいたのですが、ハレルヤ・コーラスの時には起立しなければなりませんでした。ところが、私はそのような慣習には無縁でしたので、講壇の椅子に座ったままなのでした。司会の先生も座っていたので、それで良いと思ったのでした。しかし、後で思い出したとき、会衆席にいた先生たちはハレルヤ・コーラスになったとき、全員が起立していたようです。なんとなく後味の悪い思い出でもあるのです。
大塚平安教会の界隈からは結構キリスト教主義の学校に通っている生徒がいます。夏休みになると礼拝に出席します。その時だけかも知れませんが、教会の礼拝に出席したことが、後々の支えとなればと願っています。しかし、学校が始まると礼拝があるので、日曜日にわざわざ教会の礼拝に出席しません。これは、ドレーパー記念幼稚園でも同じことで、毎週合同礼拝をしていますので、日曜日には子どもの教会の礼拝には出席しないのです。その意味でも学校の礼拝、幼稚園の礼拝はとても大事であると思うのです。
聖書の言葉
「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。」
ヨハネによる福音書10章16節)