鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

命の書に記される(礼拝出席記名簿)

今日は日曜日、神様を礼拝する日として定められており、9時からの子どもの教会、10時15分からの一般の礼拝、いずれも祝福のうちに導かれましたことは誠に感謝です。8月中は牧師の休暇としており、講壇は他の牧師に依頼しています。今年は、第一日曜日は横須賀上町教会の森田裕明牧師、第二日曜日は大船教会の渡辺誉一牧師が礼拝の説教をしました。いずれも大塚平安教会の出身牧師であります。第三日曜日も出身牧師に依頼しましたが、先方の教会の都合で招くことができませんでした。それで、あえて他の牧師に依頼してないで私が担当することにしました。今年は出身牧師シリーズとしているからです。第四日曜日は出身牧師ではありませんが、神学生時代に一年間出席しましたし、その後大塚平安教会において二年三ヶ月にわたって副牧師を勤めた横浜上原教会の古旗誠牧師に依頼しています。
大塚平安教会はいつも50〜60名前後の礼拝出席者です。牧師は講壇からお話をしながらも、どなたが出席しているか分かります。どなたが居眠りしているかも見えているのです。時には眠気を覚ますように力を込めることもあるのですが、礼拝という安息の場は、眠りを深めるところでもあるのです。よろしいのではないでしょうか。それならと、時には子守唄のごとくお話しをするのでした。礼拝が終わると、皆さんと挨拶をしながらお送りします。そして、改めて礼拝出席簿を見るのでした。どなたが出席しているか、講壇から見えると言いますが、やはり隅々まで見えているわけではありません。あら、この方が出席されていたんだと示されるのです。ところが、確かにあの方が出席していたのにと思いますが、名前が書いてないのです。これは以前のことでありますが、礼拝に出席したのに記名しないことの問題を役員会で話し合ったことがありました。原因は明らかなのです。当教会は役員を選任する場合、例えば転入会して1年も経たないで選ばれることがありました。さらに、毎週の礼拝にはあまり出席していないのに、昔からの教会員ということで選ばれることもありました。教会を担う役員が人気投票的ではいけないと話し合い、一年間の礼拝出席数が三分の二以上なければ被選挙権がないと決めたのです。そのため、集会担当の役員が出席簿を作り、礼拝出席記名簿から出席をチェックするようにしたのでした。記名簿では出席率が分かりませんが、出席表は一目瞭然です。それによって役員選挙を2、3年したかと思います。しかし、それは中止にしました。なぜならば役員になりたくないので、出席しても記名しない人がいることが分かったからです。今では出席率に関係なく役員選挙をしています。
礼拝出席記名簿、これはとても大事なものだと思っています。出席記名簿は教勢報告のためには欠かせないものです。教勢とは教会の状況を示す数字でありますが、出席記名簿が基となるのです。しかし、記名簿は教勢のためではありません。礼拝に出席して記名簿に自分の名前を記すこと、なんと重い意味があるのではないでしょうか。日曜日、どうせ休みだから礼拝に出席するというのではありません。皆さんは礼拝出席のために、どんなにか祈り、段取りをし、やりくりしながら、ようやく礼拝に出席することができた方もおられます。あるいは家族や愛する者の意に反することが礼拝出席であり、それらを背景にしながらの出席もあるのです。また、魂の渇きがあり、一日千秋の思いで日曜日が来るのを待っていた人もあるのです。礼拝出席記名簿は、私の生き様における神様への応答として、喜びつつ記名するのです。以前、教会の書類等不要なものは整理することにしたとき、かなり増えた礼拝出席記名簿もその対象にした人がありました。とんでもないことです。記名簿は祈りと涙の記録簿でもあります。災害が襲ってきたとき、まず礼拝出席記名簿を確保することだと思っています。
礼拝に出席する。教会のためではなく、誰のためでもない。神様に対して、「私はこのように神様のお導きとご配慮のもとに出席できました。ありがとうございます」と言いつつ記名するのです。それはまた、天国の記名簿にも記されているということでありましょう。
聖書の言葉
「わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはない。」(ヨハネの黙示録3章5節)