鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

主は羊飼い(北村宣道さんを偲びつつ)

暑い8月にふと思い出すのは、大塚平安教会で共に信仰の歩みをした北村宣道(のぶみち)さんです。本日が召天記念日であります。1998年8月19日、61歳でした。北村宣道さんは大塚平安教会の最初のころの牧師・北村健司先生の第四番目のお子さんでした。北村健司牧師は沖縄の那覇中央教会、名古屋中央教会等を経て、1952年に大塚平安教会に赴任しました。当然、宣道さんも家族として大塚の地に住むことになります。そして、1955年12月25日のクリスマスにお父さんの北村健司牧師から洗礼を受けました。18歳のときです。宣道さんはそれ以来、大塚平安教会の教会員として43年間、皆さんとのお交わりの中で歩まれてきたのです。
宣道さんは大学の英文科を卒業され、中学や高校の英語の教師を務め、またビジネススクール等でも英語の教師を務めたりしましたが、精神的な病が出てきて退くことになり、その後はマンションの管理人の務めをするようになりました。主に外国人が住むマンションであり、管理人として英語で対応する職務であったのです。そのようなお仕事をしながら趣味を楽しくもっていました。ヴァイオリンを奏していました。交響楽団に所属し、かなりの演奏活動をされていたようです。一方、テニスもかなりしていました。25年くらい前の大塚平安教会には青年達が多くいましたので、交わりの一環としてテニス大会等も開いておりました。「牧師杯テニス大会」と称して楽しんでいました。教会では1994年と95年の壮年会長を務めたりしています。
以上は北村宣道さんの主な経歴ですが、牧師としての思い出を記しておきましょう。一番印象に残るのは、「最後の原稿」です。大塚平安教会は1999年に教会創立50周年事業を行ないました。事業の一つとして記念誌を発行しました。記念誌には教会の皆さんからそれぞれの立場で原稿を書いていただきました。北村宣道さんから原稿が送られてきたとき、ほとんど同時にお兄さんの博道さんから宣道さんの訃報を知らされたのです。宣道さんは召天される4日前に原稿を書き上げて郵送されたのです。原稿が間に合い、50周年記念誌に掲載することができました。その原稿はポール・タニス宣教師について記しています。この湘北地区に同宣教師が大塚平安教会の近くに住みながら伝道したことが記されています。このことは、その頃を知らない人が多いので、貴重な資料にもなります。宣道さんはタニス宣教師について記した後でご自分について記し、締めくくっていました。その最後の部分を紹介しておきましょう。
「私は21世紀まで生きられれば良いと今は思っている。ちなみに私の好きな聖書の言葉は詩編第23編。愛唱歌は『いさおなき我を血をもてあがない…』である。ポール・タニス宣教師ともう一度会って話をしたいものである。天では私の父と母と共に私が来るのを待っているのではないかと思う。(8月15日記す)」
原稿を書いて4日後の19日に心臓疾患により召天されました。23日の日曜日の午後に葬儀が大塚平安教会で執り行われました。葬儀では宣道さんの大好きな詩編23編が読まれ、讃美歌271番を皆さんで歌ったのでした。遺言のように、聖書・讃美歌を示して召天されたのです。
宣道さんは、ひととき教会から離れたことがありました。「しばらくは神に向かない生活を続けるつもりです」と手紙に記していました。その後、宣道さんと牧師との間で手紙が往復されました。神様に向かうとか、教会に行かないと言って、縁を切っているのは人間のほうであり、神様が縁を切っているのではありません、と書いたと思います。結局、一人芝居をしているのであり、人間の身勝手な姿です、とも書きました。かなり厳しい書簡であったと思います。宣道さんはその後復活するのです。壮年会長をはじめ聖歌隊、修養会委員等の働きをし、良い証しをされたのでした。
人生を苦闘しつつ生きた一人の存在として、思い出深い方でした。神様を仰ぎ見つつ苦闘する人生、祝福の人生であると示されているのです。
聖書の言葉
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩編23編)