鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

古里にて・遥かな呼び声

8月16〜18日まで横浜市金沢区にある実家で過ごしていますので、昔のことが思い出され、そのまま日記に記しました。今日もこの実家にまつわる思い出を記しておきましょう。母のことについては、5月の「母の日」や6月の「子どもの日・花の日」に関わって記しています。しかし、父に関してはあまり書くことがありません。それだけ母の愛情が深いのでしょうか。父の愛情も深いのですが、父の存在は薄いというのがこの世の常でもありましょう。父・政次郎が兄の名を「光政」とし、次男は「伸治」と名づけたことについては既に記しました。私は自分の名の意味と父の存在とをいつも思い出すのです。長男をなくした父は、やはり次男への期待を増し加えたことでしょう。
敗戦後、新制小学校に進んだ私は、三年生頃から近くの日曜学校に通うようになります。それは母の入院中に近くの日曜学校の子ども達がお見舞いしてくれたからなのです。兄を亡くしてからの頃です。退院するや、母は私をその日曜学校に連れて行き、それからは毎週日曜学校へ送り出すのでした。そして、その日曜学校に通ううちに、その日曜学校にかかわりのある私立の中学への受験を試みるのでした。受験は失敗に終わります。このまま皆と一緒に公立中学には行きにくいだろうと、受け持ちの先生が他の私立中学を紹介してくれたのでした。そして、電車に乗って通学するようになりました。このあたりまでの私の進路の中には父の思い出はありません。なぜか母の存在だけなのでした。もちろん父と母が話し合ってのことでもありますが、父の意見というものを知らないまま進み成長したように思うのです。そういう父なのですが、父に関してはいくつかの強力な思い出がありました。
私立の中学に進み、ある日のこと、担任の先生が父を教室に案内してきたのです。突然であり、私はびっくりしました。父は担任の先生からいろいろとお話を聞くと頭を下げて帰っていきました。父が帰ってから、担任の先生は父を褒めるのです。殆どの親が授業参観日以外には参観等はしないのに、わざわざ参観に来られたと言い、皆も両親にいつでも参観するように言いなさい、と言うのでした。用事があったから覗いてみたと父は家で言いました。用事があったとも思えないのです。子どもの勉強振りを見に来たのでしょう。兄を亡くしている父の、私への期待と後に意味づけているのです。もう一つの思いでは、父の呼び声です。夕刻、雨が降ってきたので、母に言われて傘を持ち、駅まで迎えに行きました。家から駅までは約15分歩きます。駅に近くなると線路に沿った道を歩きます。相鉄線「かしわ台」東口はホームから改札口まで350メートルありますが、ちょうど同じくらいの線路脇の道なのです。かなり駅に近づいたとき、なんとなく声が聞こえてきます。遥かなる叫び声のように背に感じていました。ふと、その叫び声か私の名を呼んでいるように思えたのです。そして振り返りましたら、遥かかなたに父の存在を認めました。一生懸命に大声を出して私の名を呼んでいるのでした。どうやら父とは行き違いになったようです。父を迎えに行った私を追いかけ、遥か先にいる私の名を、ありったけの声で呼んだと言うことです。私はこのときの父の叫びが今に至るまで耳に残っているのです。父の私への呼び声は父と私を深く結び付けてもいるのです。
家の周囲が小高い山であることについては記しましたが、父はその中腹に畑を開墾し、畑仕事を喜びとしていました。そこに源平桃を咲かせるにようになり、季節の頃は美しく咲くのでした。いろいろな人々に株分けもしていたのです。父が亡くなるのは4月のことでした。その頃、ちょうど源平桃が咲いており、父への献花となったのです。ところが宅地造成で畑は宅地化されました。源平桃も無残に切り倒されてしまったのです。しかし、実家にまだ小さい源平桃の木が植えられていたので、大事に育てています。この小さな源平桃を見るたびに、遥かなる父の呼び声が聞こえてくるのです。その呼び声は神様の呼び声として聞こえてもいるのです。
聖書の言葉
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」
(イザヤ43章1節)