鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

古里にて・変わらないもの

昨日は敗戦記念日に思いを馳せて記しました。横浜市金沢区にある実家での思い出でした。この家は、私が2、3歳の頃に転居してここに建てられたのでした。その前は、横須賀市追浜方面に住んでいたのです。戦争中、追浜飛行場があり、戦争が激しくなってきたことで、強制転居となったのでした。その界隈に住んでいた人たちも、実家の周囲に転居したのです。従って、飛行場近くに住んでいた頃の、それぞれの家の呼び方が転居後も続いていました。例えば、豆腐屋さんの家、稲荷前の家、にや(新家)の家等です。今では年配の人しかその呼称が通じませんが、懐かしくもあります。その稲荷前の息子さんが亡くなりました。8月15日だということでした。16日から18日まで実家に来ていました。稲荷前の家はすぐ前の家です。17日になって、初めて亡くなられたことを知ったのでした。夕刻、散歩に出ましたら、町内の掲示板があり、そこに訃報として掲示されていのです。たまたま通りかかった金蔵さんの奥さんに、この掲示稲荷前の息子さんですか、と聞きましたらそうだと言うのです。こういう会話ができるのも、金蔵さんの奥さんも昔からの人であるからです。金蔵さんも亡くなっていますし、その奥さんも80歳前後になっていると思われます。いまだに金蔵さんの奥さんと呼んでいるのでした。稲荷前の息子といっても、稲荷前のおじさん・おばさんは亡くなっていますし、息子自身は75歳なのでした。私より8歳年上ですが、小さい頃は遊んでもらったわけです。
実家にいると昔の時計が止まっていて、今動いているのは昔の時計のような気がいたします。実家には昔のボンボン時計があります。時間ごとにボン、ボンとなります。12時には12回ボン、ボンとなるのです。寝ているときはうるさいので、しばらくは鳴らないように止めておきました。しかし、復古調よろしく復活させました。時間ごとにボン、ボンと聞き、昔への思いが一層深まっているわけです。ぜんまい時計でありますから、ぜんまいを巻くことも楽しみでもあるのです。このブログに時計の表示がありますが、ちょうど同じような形です。振り子が動くたびにカチカチと音が出ています。慣れてしまえばうるさくありませんが、初めての人は耳について寝られないでしょう。
私の実家の家は周囲を小高い山に囲まれています。ちょうど谷間になっており、ここで行き止まりですから、通りすがりの人はありません。遊びといえば、小高い山を駆け回ることも一つでした。私が神学校に入るのは1963年頃ですから、少なくてもこの時点までは今までの環境であったわけです。そして、卒業後は東京の青山教会で4年間の副牧師を勤めた頃も同じたたずまいでした。4年後に宮城県の陸前古川教会に赴任するとき、この実家に泊まり、両親や長姉に送られながら、軽自動車で家族4人が出発したのです。その時がこの界隈のたたずまいの見納めであったかもしれません。宮城県に約7年いました。年に1、2回は帰省していました。帰省するたびに序序に周囲が変化しつつあったのです。宅地造成という言葉がはやったようにも記憶します。小高い山々は造成されていきました。そして、ところ狭しと家が立ち並ぶようになったのです。従って、今では上を見上げれば家々なのです。上から見下ろされているようで、なんとなく落ち着かない気分になります。しかし、谷間の家は変わることなく、昔からの近所の皆さんなのでした。上は家が立ち並んでも、周囲は昔ながらの環境でもあり、実家の裏手は木が生い茂っています。そういう意味でも、実家は気の休まるところでもあるのです。
人間の営みは次第に変化しています。環境も変わっていくでしょう。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と室生犀星が歌っています。故郷は思っているだけで、大きな変化を遂げています。「住めば都」の諺がありますが、今すんでいるところが一番良いのかも知れません。そういう中で思うことは、変わることなく家族の営みを続けているのが教会なのです。久しぶりに教会に来た人も、あいも変わらずに存在する教会に、故郷に帰った思いを与えるのでした。
聖書の言葉
「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
イザヤ書40章8節)