鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

古里にて・主の御計らい

8月15日は日本の敗戦記念日です。1945年のその日、私は6歳でした。横浜市金沢区にある家でその日を迎えました。しかし、私には敗戦記念日に係る思い出は何も印象にありません。敗戦の日天皇陛下玉音放送がラジオから放送され、人々がラジオを聞きながら、首をうなだれ、あるいは泣いている印象は私にはないのです。父や母、姉たちは聞いたのかも知れませんが、私は何をしていたのでしょう。戦争の思い出と言えば、頭の上をアメリカのB29と言われる戦闘機が爆音をとどろかせながら、横浜・東京方面に飛んで行ったことが思い出されます。そういうときは空襲警報が発令しており、家のすぐ近くにある防空壕に逃げ込むのです。敵の飛行機は上空を通り過ぎるだけなので、平気で空襲警報発令中でも防空壕から外に出ては上空を仰いで見るのでした。横浜方面の空が赤くなっているのも印象に残っています。横浜や東京が空襲で悲惨な状況にあるとき、私は戦禍を経験しないで過ごしたのでした。
そのように戦禍の経験のない私ですが、戦争による悲しい出来事に遭遇しています。兄を亡くしたと言うことです。戦争中は学童疎開がありました。小学生は田舎に疎開させられました。兄と三番目の姉が疎開をしていました。詳しい状況は知りませんが、戦争が終わり、疎開から帰ってきた兄は栄養失調になっていました。私はまだ就学していませんでしたので、家にいましたし、たとえサツマイモの代用食でも両親は食料を確保しながら生き延びたというわけです。私は1946年、昭和21年、敗戦後の一年生になりました。兄は私より3歳上であり、私が小学校1年生になったときは4年生になっていましたが、何かと面倒を見てくれていました。しかし、私が小学校に入ってから、おそらく秋頃からかと思われますが、兄の体調が悪くなったのです。最初は麻疹ということでしたが肺炎となり、1947年2月23日、11歳でなくなりました。兄の麻疹と共に私も麻疹となりました。二人で寝ていました。その後、兄の病状が悪くなっていったとき、両親はバナナを食べさせたり、鯉の生き血が良いというので飲ませたりしていました。昔は病気になるとバナナを食べさせるのです。滋養があるとされていましたが、普通の生活ではなかなか手に入りません。私も少しは与えられましたが、兄にはたくさん与えているみたいで、私は寝床の中で「バナナ」と叫んでいたことが、うすうす思い出されるのです。
結局、兄は麻疹から肺炎となりなくなりましたが、母が言うには栄養失調でもあったのです。そのことは私が成人して、母と兄の思い出を語ったときに、母はぽつりと言ったのでした。疎開では食べるものがあったでしょうが、敗戦後食料不足であり、母は自らの責任のように兄の死を受け止めていたのかもしれません。兄が亡くなったとき、母は兄の体を裸にし、体中を手ぬぐいで拭いていました。やがて、兄のお腹を両手でさすりながら、「みっちゃん、何故死んじゃったの」とおいおいと泣くのでした。私はその母の姿をそばで見つめながら、母の悲しみを体で感じたのでした。
兄の死が鈴木家の方向を変えたようでもあります。上の三人は姉たちでした。4番目に生まれた子どもが男の子であったので、父はたいそう喜んだようです。父は政次郎という名ですが、生まれた子どもの名を「光政」と名づけたのでした。5番目の子どもも男の子であり、「まあ、この子は育ってくれればいい」と言うわけで「伸治」と名づけたのです。それだけに父の長男への思いが感じられます。しかし、人間の思いはままならぬと言うことです。別に父に対してひがんでいる訳ではありません。そこで、私が詠んだ歌は「伸治(のぶはる)と親は名づけてくれにしも、わが忠実なるは背丈ばかりか」でした。私は父の思い通りの人生ではありませんでしたが、父は私が牧師になったことを受け止め、人に対しても子どもの生き方としてお話していたのです。
敗戦の日を迎え、鈴木家も戦禍に影響された道を辿ったというわけです。そのような歴史を持ちながら一人の伝道者が生まれたと言うことを記したかったのです。
聖書の言葉
「わたしの魂よ、主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編103編2節)