鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

今日、神の声を聞くなら(担当役員制度)

私の夏休みは後一週間となりました。8月7〜19日は教会や施設の集会はすべてお休みになりました。しかし、子どもの教会のサマーキャンプが7〜8日に開催されましたし、11日は教団役員会で出かけたりしましたので、やはりの緊張した日々でありました。だから、14日からの一週間は本当のお休みとして過ごそうと、ひそかに期待し喜んでいたのです。そういう人間的な喜悦を神様はお許しになりません。ちゃんと御用を用意してくれるのです。12日の土曜日にさがみ野ホームの園長から電話が入りました。利用者がお亡くなりになったということです。葬儀は14日に前夜式、15日に告別式という日程になりました。結局、14日は葬儀の準備ということになったのです。この日をすべて空けておいたので、集中して準備ができたのでした。休みだったのに…、なんてことは考えず、ただ神様のお計らいであると思っていました。
以前にも同じようなことがありました。山登りの計画をし、その日に入ってくる予定は別の日に変更し、調整していました。これで何も予定がなくなったので、心置きなく登山ができると思っていました。そしたら、教会員が天に召され、調整して空けておいた日が葬儀となりました。神様のお計らいであると、つくづく思わせられたのでした。葬儀は予期せぬときに、日程の中に入ってきます。もちろん、すべての予定を変更し、あるいは集会等は休会にします。しかし、どうしても都合がつかないこともあります。国内であれば北海道にいようと、沖縄にいようと、すぐに帰ることができます。外国にいる場合はそういう訳にはいきません。イスラエル旅行をしたときに、教会員のお連れ合いが逝去されました。仏式で行なわれたのですが、やはり牧師として参列すべきでありました。もっともそのときは古旗誠牧師が担任教師でありましたので、すべてを任せていくことができました。韓国に行ったときは担任教師はいません。役員会で協議し、もし葬儀等があった場合の段取りを細かく打ち合わせて出かけたのでした。
 牧師がいないときにどう対処するか。以前から課題でした。いろいろな意見がある中で、宗教法人であるから、責任役員が対処すべきであるといわれて、そのようにしたことがありました。しかし、その取り扱いには疑義が出て、再考することになりました。私が教団書記に就任し、5月の各教区総会に問安使としていくとき、水曜日の祈祷会が不在になるのです。早速、責任役員という声がありましたが、そのときから担当役員制度を導入したのでした。担当役員が祈祷会を担当するのです。担当者が必ずしも奨励をする必要はありません。誰かに依頼しても良いのです。牧師が不在でも祈祷会は開かれるということです。毎週日曜日の礼拝では司会、奏楽、受付、献金等の奉仕がありますが。奉仕者のまとめ役が必要です。牧師は講壇に上がってしまえば何もできません。その間、礼拝出席ではない人が来る場合があります。宅急便、回覧板、道を尋ねる人等に対応しなければならないのです。また、電話もあります。受付の人は説教前の讃美歌を歌っているときに会堂に入ることになっています。そのため担当役員制度をもうけ、10人の役員が交代でこの任を持つことにしたのでした。担当役員は原則として礼拝中は受付にいるということです。
このように担当役員制度があるので、牧師が不在になる週日も担当することにしたのでした。すなわち、担当役員は日曜日から土曜日まで担当するということです。何も牧師が不在のときばかりではなく、例えば教会員に何かが起こったとき、牧師はまず担当役員と相談します。その上で動き出すということにしたのです。この制度はとてもよいと思います。教会には古くから教会を支えてこられた方がおられます。おのずとその古い人が中心になるのです。一人なら良いのですが、二人三人、五人六人といる場合、若い牧師は誰に相談するのか、悩むでしょう。この人に相談して、あの人に相談しないとなると、後で問題になるのです。比較的小規模でありながら歴史の古い教会にありがちなことなのです。いずれにしても神様のお計らいにすぐ対応できるようにしておきたいのです。
聖書の言葉
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブライ人への手紙3章15節)