明日の自分を信じて(刑務所で聖書を読む)
昨日は樂太朗君への思いを記したので、刑務所の出来事が記せませんでした。毎月、第四木曜日には八王子医療刑務所に行き、受刑者の皆さんに教誨を行っています。教会は希望する人でありますが、私のキリスト教の教誨を希望する人は6、7人います。比較的多いほうです。この刑務所には10人の宗教教誨師が入っており、それぞれの宗教で教誨を行っています。仏教が7人のお坊さん、神道が1人の宮司さん、カトリックが1人の神父さん、プロテスタンが1人です。教誨を希望するのはそれぞれの教誨師に対して2、3人が平均です。以前は私の教誨も1、2人くらいのときもありました。何故か最近は比較的に希望者が多いということは喜びでもあります。
刑務所にはいつも午後2時頃に着きます。受付に来訪を告げると、係官が迎えに来ます。係官の執務室に案内されますが、そこまで行くには二つの扉を開けて進みますが、その都度鍵を開けます。どこを通るにも扉には鍵がかかっています。従って、一人で教誨室まで行くことはできないのです。2時過ぎには教誨が始まるのですが、この日に限って待たされていました。やがて係官が、いつも使用している教誨の部屋は使用中であり、使えないと言うのです。そのためこの日は先に女性の教誨を担当することになりました。
女性の教誨希望者は1人でした。中学・高校はキリスト教主義の学校であったと言いました。だから讃美歌の312番を一緒に歌ったとき、とても懐かしげに歌っていました。聖書はルカによる福音書15章を読みました。眼鏡を持ってこなかったから、聖書を読めないというので、私がゆっくりと読んであげました。教誨のときにはいつも聖書を輪読しています。受刑者の皆さんは大きな声で読んでくれます。ルカ福音書を読んだのは、この女性が若い頃はキリスト教に接しており、礼拝をささげ、讃美歌を歌い、み言葉に耳を傾けていたからです。福音書には「迷子の羊」「失くした銀貨」「放蕩息子」のたとえ話が記されています。神様は失われそうな存在を訪ねてくださり、見つかるまで捜してくださるのです。そして、首を長くして悔い改めて帰ってくることを待っているのです。女性は首をたれて聞いていました。万引きがもとで受刑者の境遇になっています。今こそ、神様の導きの時であるのです。探してくださる神様の声が聞こえてくるときなのです。
以前、やはり女性の受刑者の教誨を行いました。そのときも教誨を希望したのは一人でした。女性は聖書のお話を始めてからまもなく、手ぬぐいを目に当て、終わりまで泣いていました。聖書のお話を終えてから、対話をしました。自分の赤ちゃんを殺してしまったと言います。止むに止まれぬ事情であったと涙ながらに、そして声を詰まらせながら話すのでした。どのようにして赤ちゃんに償ったらよいのでしょうか、と尋ねました。「あなたがまじめに、真実に生きることで、天国にいる赤ちゃんは報われるのです」と示しました。神様に心を向け、あなた自身が真実に生きることで、赤ちゃんは祝福されるとお話しをしたのでした。
こうして、今日は女性の教誨が先になりました。いつもは男性が先であり、女性が後なのです。女性の教誨が終わり、今度は男性の教誨を行うつもりでいましたら、やはり予定していた教誨の部屋がふさがっており、結局この日の男性の教誨は中止ということになったのです。その時、いつも私の教誨を受けている皆さんの顔が浮かびました。皆さんは教誨を楽しみにしているのです。月に一度の教誨であり、休めば間隔があきます。いつか、明らかに次月は来られなく、その次の月になることを皆さんにお話しましたら、とても残念がっていました。従って、この日だって、教誨の日なので、係官がいつ迎えに来てくれるのか、首を長くして待っているに違いないと思ったのです。私自身が、申し訳ないと思うのでした。
受刑者の皆さんに聖書の示しが与えられること、とても大事な務めであると思っています。
聖書の言葉
「彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥じとも思わなかった」(テモテへの手紙<一>1章16節)