鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

途方にくれても失望せず…(樂ちゃんへのメッセージ)


樂太朗君、こんにちは。今日は木曜日、八王子医療刑務所教誨があり、刑務所からの帰り道に君が療養している北里大学病院があるので、ぜひ君に会いたいと寄りました。
君は、去る7月3日、学校の帰り道において交通事故にあってしまいました。救急車で病院に運ばれましたが意識がありません。そのうち回復するとのお医者さんの見解でありましたが、一週間、二週間経っても意識は回復されないのでした。最近、お医者さんの見立ては「びまんせい軸策損傷」だというのです。それが重いことなのか軽いことなのかわかりません。今現在、意識がないといわれています。でも、君のパパとママのブログを見ると、君は随分と反応するようになりました。君を知るすべての皆さんがお祈りしています。そのことについては、この私のブログ、7月5日と7月17日に記しています。
看護師さんに君に会いたいことを告げると、今は入浴中であり、上がったらお知らせすると言われたので待合所にいました。その前に、外側から病室が見えるということを聞いていたので、3Aの右側から周り、君がどの病室にいるのか、それぞれの病室を覗いてみました。君を見つけることはできませんでした。私は、その時深く示されたことは、こんなに多くの子ども達が障がいや病気と闘っているということ、胸を痛めながら病室を覗いたのでした。
待合室にいると君のパパが声をかけてくれました。今はお風呂上りの処置をしているとのことでした。そして、3Aの左側の通路から回り、病室の外からガラス越しに君と会うことができました。お風呂に入って、気持ち良さそうにも見えました。ベッドで君のお世話をしている君のママが、君の耳元に、私の訪問をお話していました。外にまで中の話し声は聞こえません。看護師さんが君の足の傷の処置をしていました。痛いときには、痛そうな顔をするのですね。不本意なことに対しては、顔を曇らせることができるのですね。そして、気持ちよい感じを安らかな表情に表すことができるのですね。本当に意識が回復してないのでしょうか。私には、ママや看護師さんにすべてを委ねている一人の少年としてしか見えませんでした。
いよいよ君と面会室でお話しすることができました。君は病室からパパに抱かれてやってきました。日曜日に家族で教会に来ていますが、お姉ちゃんの和香ちゃんと喧嘩し、君が負けて泣きながらパパに助けを求めに行ったとき、パパは君を優しく抱っこしていました。そのときは安心して泣きやみ、パパに全身を委ねていました。今は小学校一年生、少し前まではそんな君を見かけていました。今、パパに抱かれている姿は、あの時とまったく変わらないのです。ママが車椅子を用意し、君を座らせました。されるままにしている君は、なにもかも安心して委ねているようでした。
君と対面して、お祈りをするとき、本来なら君も出席しているはずの同窓会の礼拝で読んだ聖書と、そのときのお話を短くまとめて君に話しました。お話は「地の塩・世の光」(マタイによる福音書5章13-16節)です。たとえば、君は今は意識があるのか分からない状態であったとしても、君は「地の塩・世の光」なのです。君を知っている誰だって、君を思えば頬が緩んでくる、そういう君なのでした。今の存在が地の塩・世の光なんだよ、樂太朗君。その後、君の頭に手を置いてお祈りしました。「神様、創造のとき、人間に与えた『命の息』を、今、この樂ちゃんに与えてください」とお祈りしたのです(創世記2章7節)。そこにいるパパもママも心から神様にお願いしました。私には聞こえていました、ママの一生懸命に抑えている涙声を。君に対して、いつも笑顔で接しているパパとママ、君の回復に全力投球しているパパとママ、君と共に地の塩・世の光のパパとママなのでした。
君と握手して別れましが、パパとママはこれから君にビデオを見せると言い、プレイルームに入っていきました。たとえ、今、意識が回復しなくても、君は樂太朗君です。たとえ、そんなことはないと誰もが願っているのですが、このまま意識が回復しなかったとしても、パパとママのあの全力投球が、新しい君を生まれさせるに違いない、と思っています。そして、私たちは新しい君を応援するでしょう。
聖書の言葉
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方にくれても失望せず…、イエスの命がこの体に現れるために。」(コリントの信徒への手紙<二>4章8-10節)
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