鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

涙をことごとくぬぐいさられ(姉の祈り)


今日は我が家の墓参りをしました。私の場合、墓参りと言い、墓前で手を合わせ先祖を拝むというのではありません。墓の周りの草むしりや周辺を整理し、お花を飾り、既に天国に召されている者達の、平安であることは当然ですが、生きている者の思いとして平安を神様にお祈りすることなのです。この一ヶ月、長女の羊子がスペインから帰国しており、五人の家族が久しぶりに集うことができたので、良い機会でもありました。
鈴木家の墓地は、両親は浄土真宗の檀徒であり、鈴木家の先祖代々の寺の墓地にあります。先祖については話に聞くだけで知りませんが、ここにはまず私の兄が埋葬されています。小学校4年生で死にました。戦後まもなくです。戦争のゆえに栄養失調と肺炎がもとであると聞いています。その後、母が1989年に、父が1995年に死に、この墓地に埋葬されているのです。     1997年に姉が召天したとき、姉はかねがね自分が死んだら両親の墓に埋葬して欲しいといっておりました。姉が所属する横浜の清水ヶ丘教会には厳かな納骨堂があります。しかも、教会の敷地内にあります。丘の斜面に存立している教会は、さらに上の方に教育館があり、さらにその上のほうに納骨堂があります。従って、墓地が一番高いところにあり、あたかも天国から地上を見下ろしているかのようです。教会員の皆さんは郷愁としての墓地なのでした。清水ヶ丘教会の創立当初からの教会員である姉にとって、当然教会の墓地に埋葬されることを願っていると思っていました。しかし、死後は両親と共にという姉の思い、胸を詰まらせられるのでした。和尚さんにお願いして、キリスト教の信者である姉の埋葬を鈴木家の墓地で行いました。埋葬式にあたり、和尚さんは承諾をしてくれたものの、墓地において讃美歌を歌うのは控えてもらいたいとのことでした。清水ヶ丘教会の島田勝彦牧師が司式をしてくれましたが、讃美歌を歌わない代わりに、一同で詩編を唱和したのでした。詩編は賛美の歌であるからです。こうして姉は両親と共に埋葬されました。墓誌には両親の戒名が刻まれていますが、姉は「鈴木美喜子 68歳」と刻まれております。仏教とキリスト教とそれぞれの信仰に生きた両親と姉、ひっそりとこの墓地に埋葬されています。それは生前の姿そのものなのでした。
私がキリストに結びついた状況については、ブログの6月16日付で「私の人生の原点」と題して記しています。キリスト教の信仰をもって生きるとき、今後の歩みが牧師になることへと導かれていることを知るのでした。しかし、兄は既にいません。上は姉たちで、次女と三女は結婚しています。家にいるのは長姉と両親であったのです。牧師になってこの家を離れることの臆する気持ちが働いていました。しかし、自分は召されているとの思いが深まり、早速、両親に話します。すると、あれほど教会に行くことを叱咤激励した母ですが、「なにも牧師さんにならなくったって」と言うのでした。従って、決心したもののすぐには神学校に行くことはできませんでした。そういう状況の中で、ある日のこと姉が私に言いました、「神学校に行き、牧師になりなさい。お父さん、お母さんとは私が一緒にいるから」と。そして、両親には毎日それとなく説得してくれたのです。そして、神学校に入ったのでした。
姉は次第に高齢化していく両親と共に暮らしていました。病院通い、近所付き合い等、両親の世話をしながら生活していましたが、姉自身がリュウマチに犯され、病と闘わなければなりませんでした。そういう中で母を送り、父を送りました。父の葬儀のときは姉は入院中でしたが、納棺式には許可を得て帰宅しました。涙を流しながら、父の顔をさわる姉がとても痛々しく、思わず胸に迫るものを感じるのでした。姉は68年間、両親と共に暮らしました。神学校に入ると同時に家を離れた私は、年齢の差もありますが、到底姉にはおよびせん。死ぬまで、そして死んでからも天国で両親の世話をしようとする姉には、ただ頭を下げるのみでした。改めて高齢の両親と病魔と闘いつつ生きた姉の、三人の寄り添う姿が示されたのでした。
聖書の言葉
「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(ヨハネの黙示録21章3-4節)