鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

いつも喜んでいなさい(「少女パレアナ」に示される)

子ども達はどうして砂場が大好きなのでしょう。山を作り、トンネルを掘り、また深い穴を作ります。あるいはお砂遊び用のシャベルやカップ等を使って、なにやらご馳走ができたようです。私を見かけると、カップにいっぱい砂をつめて、ご飯だと言って持って来るのです。ありがとう、ムシャムシャと言い、食べるまねをします。再びお砂場に行き、別のカップに砂を入れて、今度はアイスクリームだと言いつつ差し出すのです。冷たくておいしい、と言ってカップを返します。もうお腹いっぱいになっちゃった、と言ってもまだご馳走してくれそうです。
今日は夏休み中の特別保育です。自由登園ですが80%の子ども達が登園しています。まだ梅雨明けならず曇り空ですが、子ども達は元気にそれぞれの遊びを楽しんでいます。大好きなのは手押し車もその一つでありました。車の中になにやらいっぱい積んでいます。砂遊び用のバケツ等です。別のお友達は車の中に水をいっぱい入れて走り回っています。水がチャッポチャッポと飛び散っています。それが楽しいのでしょう。砂団子はどのお友達も大好きです。園庭はどこも砂地であり、どこにいても砂団子ができるのです。「おだんご、できたよ」と見せに来ます。できばえを褒めると、さらに大きくしようと砂をかき集めるのでした。
子ども達は自由に遊びを楽しんでいます。大人が場を提供してあげれば、子ども達の創造力が大きく働くのです。幼児教育の分野で何から何まで用意してあげる教育方法があります。台所用品すべてが子供用に作られています。ケーキのおもちゃがありました。ナイフで切れるようになっており、分割してお皿に分けることもできます。楽しい遊びになることは、私自身それらのおもちゃにふれて実感しました。従って、それらのおもちゃを否定はいたしません。しかし、子ども達は本物によく似せたおもちゃがなくても、手元にあるもので創造の世界を作り出すのです。
無ければ無いで恵みの状況を作りだす、それは少女パレアナの世界です。エレナ・ポーターという作家が「少女パレアナ」という物語を書きました。パレアナはまだ小さい少女です。お父さんは牧師をしていました。パレアナもお友達のみんなが持っているものは、自分も欲しいのです。お父さん・お母さんにお願いしても買ってもらえませんでした。家はどちらかと言えば貧しいのです。それと同時に、お父さんもお母さんも豊かさの中に生活しないような姿勢がありました。パレアナはみんなが持っているかわいいお人形さんが欲しくてたまりませんでした。ある日のこと、パレアナ宛に荷物が届きました。喜び勇んで荷物を開けると、中から松葉杖が出てきたのです。何かの間違いと思いました。悲しむパレアナに、お父さんは優しく言いました。「松葉杖って知っている?足が不自由な人が使うんだよ。今まで考えたことあるかな。今、初めて知ることができたし、松葉杖を使う人達のことを考えることができて良かったね。むしろ、この松葉杖が贈られて喜ぶべきだと思うよ。」とお父さんは言うのです。確かに、そのときは悲しかったけれど、お父さんの言うとおり、今まで松葉杖を使う人達のこと、ぜんぜん思わなかったことを知るのでした。悲しいけれど、その悲しさは自分がいろんなことを知るためなんだ、と知るようになります。お父さんは「喜びのゲーム」と言うのです。その後、お父さんも、お母さんも相次いで天国に行ってしまいました。一人残されたパレアナはおばさんに引き取られます。このおばさんがとても意地悪な人なのです。いろいろとパレアナに意地悪をしますが、パレアナは「喜びのゲーム」を知っていますから、どんなに意地悪されても笑顔で過ごしているのです。さすがにおばさんもパレアナの生き方に脱帽します。そして、おばさん自身も「喜びのゲーム」をしつつ生きるようになるのです。
何もかも与えるのではなく、子ども達の独自性・創造性を励ましてあげたいのです。他の幼稚園のようにあまり遊具を置いていない当園の取り組みでもあります。
聖書の言葉
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙<一>5章16-18節)