鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

成長させてくださる神様(登米教会の思い出)

今日は書斎の机の周りにうずたかく積まれた書類の整理をしました。いろいろな関係の資料等書類はいつまでも保管しているわけにはいきません。適当に整理しないと、山のようになってしまいます。ひととおりか片付けて、やれやれと思いつつ椅子の背もたれに頭を寝かせ天井を仰ぎ見ました。すると、ちょうど机の上の天井に風鈴が吊り下げられているのが目にとまりました。いつも頭の上にあるのに、机の上ばかり気に止めているので、ともすると忘れているものなのです。音をさせないようにしているからです。風鈴には短冊がつけられており、登米名産「松笠風鈴」と記されています。この風鈴は私が登米教会を去るに当たり教会の皆さんが記念として贈ってくださったものです。天井の風鈴を仰ぎ見ながら、登米教会を兼牧したことが走馬灯のごとく思い出されたのでした。
宮城県登米教会の牧師に就任するのは、陸前古川教会に6年半在任した最後の一年間でした。陸前古川教会と登米教会の二つの教会の職務を行うこと、それを兼牧と称しています。宮城県登米登米町は人口8千人の町です。河口が近くなっている北上川は川幅も広く、ゆったりと流れています。この町は、昔は仙台伊達藩の北を守る重要な拠点であったと聞きます。従って、その頃、今から30年前も格式が社会の中にもあったのです。あの家は武家であったとか、足軽であったとか、家老であったとか、対話の中にはいつも出てくる話題なのです。そういう社会の中にある登米教会であり、教会員も約10名でした。幼稚園も併設しており、町には保育園はありますが、唯一の教会幼稚園に依存しているのでした。10名の教会員では一人の牧師を支えられない状況でもあります。幼稚園は存続させなければならないのです。そのため、幼稚園を学校法人にすることにしました。町も学校法人にするなら何かと協力するというのです。そのため、町側と教会役員会が学校法人幼稚園設立委員会を発足させました。学校法人幼稚園の設置基準に合わせるため、まず園舎建設計画が始まりました。しかし、これはなかなか進まず、牧師も辞め、就任したかと思えばすぐに辞めていくという状況であったのです。町との話し合いが複雑であり、辞任せざるを得ないようでした。定住の牧師を招聘できないと判断し、兼牧を決断しました。そこで白羽の矢が立てられたのが陸前古川教会の牧師だったのです。
半年間はいいままでの成り行きで学校法人幼稚園計画に加わっていました。しかし、このままではいつまで経っても進められないと判断しました。登米教会の役員の皆さんに決断を求めました。そして10名の教会員と話し合い、決断したことは、町との設立委員会を解消し、教会が独自に取り組むということなのです。たった10名の教会では何もできないから、町の協力を仰いで設立委員会を発足したのですが、原点に戻るということでした。教会の皆さんは、それしかないと判断しました。もはや格式関係を断ち切って、歩みだしたということです。幼稚園の歴代母の会の会長さん達も立ち上がってくれました。資金集めに奔走されました。教会としても全国の教会に募金依頼を出しました。10人の会員で何ができるかと、教会員自身思っていましたし、町の人々も思っていたのです。歴代母の会が立ち上がってくれたことが何よりの力です。皆さんが、登米町的に言うなら、おっとり刀を取り上げて駆け参じたということでしょう。高齢の教会員が「とよま姉様人形」を千代紙で作り、皆さんに買っていただきました。着物姿で、祈るような姿勢が哀愁を誘います。園舎が出来上がったとき、もはや私の使命は終わったと判断しました。後は学校法人の設立申請さえすればよいのです。そして、陸前古川教会、登米教会を辞任しました。次の牧師が書類を調えて、ついに学校法人幼稚園となり、その牧師は15年もの長きにわたって、登米教会の牧会と学校法人幼稚園の運営をしたのです。
小さな群れでしたが、とても大きな働きをしたのでした。神様の御業が働いたと受け止めています。神様は必ず御業をあらわしてくださるとは、私の信念になっています。
聖書の言葉
「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」
(コリントの信徒への手紙<一>3章7節)