鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

前のものに全身を向けつつ(覗き渋滞の教訓)

覗き渋滞…? この言葉をはじめて知り、意味深さから本日の礼拝において、説教中の例話としました。土曜日に所用で実家に向かいました。綾瀬から横浜市金沢区にある実家に向かうには、下川井から保土ヶ谷バイパスに入り、横横道路を通って朝比奈インターへ抜けます。その下川井からバイパスに入ろうとしましたら、かなり手前から渋滞していました。ようやくバイパスに入っても渋滞であり、のろのろ運転であったのです。どこかで事故でもあったのかと娘と話していました。案の定、事故でした。しかし、事故は反対車線であったのです。こちらの車線は事故でもなく、何でもないのです。それなのに、どうして渋滞しているのでしょう。娘が、覗き渋滞なのよと言います。反対車線で事故です。トラックと乗用車が事故を起こしたようで、トラックが道路に止まっています。パトカーが数台赤ランプを点灯させています。何か物々しい状況です。反対車線なのですが、こちら側の車線を走っている車は、一瞬ブレーキをかけて反対車線の状況を見ようとするのです。当然、後ろの車もブレーキをかけるし、その場を通り過ぎようとすれば、やはりブレーキをかけながら反対車線を覗くのです。その現場を過ぎるとどうでしょう。どの車も渋滞どこ吹く風とばかりスピードを速めるのでした。このとき、「覗き渋滞」という言葉をはじめて知ったのでした。それと共に「覗き渋滞」的生き方が自分の中にも随分とあるなあ、と思わせられるのでした。
本日の礼拝は「神様のお導き」と題しての説教です。聖書は列王記上10章1-13節、マルコによる福音書8章22-26節の聖書が示されています。大塚平安教会は日本基督教団の聖書日課をそのまま用いています。参考の説教題は「神からの真理」でありますが、聖書から神様のお導きとして示されたのでした。旧約聖書の列王記はソロモン王にシェバの女王が難問を吹っかけに来たことが記されています。ソロモン王はダビデ王に次いで王様になりました。そのとき、神様はソロモンに「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われました。その時、ソロモンは「わたしは取るに足らない若者です。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心を与えてください」とお願いするのでした。すると神様は「あなたは自分ために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われたのです(列王記上3章)。こうしてソロモンは神様の知恵をいただき、王として人々を支配したのでした。ある時、二人の女性がやってきます。一人の赤ちゃんを自分の子どもだと主張しているのです。ソロモン王は、もちろん判断できません。その時、下した採決は「その赤ちゃんを二つに切って、それぞれの女性に渡しなさい」と言うことでした。すると、一人の女性は開き直って、そうしてもらうと言うのでした。しかし、もう一人の女性は泣きながら、「もう、私の子どもと言いませんから、決して切り裂かないでください」と懇願するのです。判決は明らかです。まるで日本の「大岡裁き」のようです。神様の知恵は慈しみが根源なのです。苦しみ、悲しみつつ生きる人々に適切な知恵を下さっているのです。主イエス・キリストは神様の慈しみを人々に示しました。その場合、病気がすぐに治ってしまうことと共に、段階的に癒されていくことも示しているのです。本日のマルコによる福音書は、段階的な癒しを示しています。今の状況は苦しく、悲しいです。しかし、今の状況は昨日の神様の導きを土台とした現実であるということです。そうであれば、今は確実に神様のお導きを与えられているということなのです。それなのに、私たちは現実を何とかしようとあちらを見、こちらを見つつ歩んでいるのです。渋滞してしまうのです。神様はイエス様の十字架を通して私を導いてくださっています。遅れないように慈しみをいただいて歩みましょう。
聖書の言葉
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ヨハネによる福音書21章22節)