鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

練達は希望を生むということを

 今日は朝から雨であり、まだ一週間は雨模様ということです。この雨の中ですが、教会の数人の皆さんが笠倉正道さんの墓参に出かけました。7月1日が正道さんの召天記念日であり、正道さんのお父さんが在世の頃は、お母さんとお二人で必ず7月1日の前後に墓参に出かけていたのです。しかし、その後、正道さんのお父さんも召天され、お母さんは車椅子の生活でもあり、教会の皆さんがこの時期にお母さんと共に墓参をするのでした。
ところで、その正道さんは1982年7月1日に召天されたのです。21歳の若者でした。彼はドレーパー記念幼稚園を卒業しています。卒業後は教会学校には出席していませんでしたが、大学受験のときに教会に来ることになりました。一浪中の秋であり、私が会議で不在の水曜集会に出席したのでした。その時、牧師が不在であったことから、後日牧師を訪ねてくれました。いろいろな話に弾みました。それからは勉強の合間に牧師を訪ね、人生談義をしたものでした。今は受験中であり、大学合格の暁には教会の礼拝に出席すると言い、牧師が忙しそうだから手伝うとまで言ってくれるのでした。春となり、そろそろ彼から合格の知らせが来るものと待っていました。しかし、なかなか連絡がないのです。家に電話してみました。お母さんが応対され、彼は腰を痛めて整形病院に入院しているとのことでした。早速お見舞いしました。腰痛だから、すぐに退院しますよ、と彼は元気に言うのでした。その後、そろそろ退院したかな、と思いながら、念のため整形病院に電話で尋ねました。すると彼は横浜市大病院に転院したというのです。一体どうしたのでしょう、と案じつつ連れ合いと共に市大病院の彼を訪ねたのでした。整形病院は整形と診断して治療していたのですが、実は腰に腫瘍があったのです。腰痛の治療がかえってよくなかったのです。市大病院に運ばれたときには悪化しており、結局彼は下半身不随になってしまいました。大学に合格し、これからは教会に出席して、忙しい牧師の手伝いをするという希望を持っていた彼です。どん底に落とされたのです。しばらくは立ち直れないほどの痛みをもって病院のベッドに横たわっていたのでした。
しかし、彼は立ち直るのです。車椅子の生活になったとしても、それなりに生きる決心をしたのでした。パラリンピックにも出場する意気込みで上半身を鍛えるようになりました。入院中のそんな彼のもとに、私は毎週木曜日には訪ねるようになりました。共に聖書を読み、二人で読んだ聖書について話し合うのでした。そして、彼は洗礼を受ける決意までしたのでした。彼にとって洗礼は退院して教会で受けるということであり、その希望を持ちつつ病院での療養が続けられたのです。そして、上半身を鍛えることを怠りませんでした。丹沢の麓、七沢に県のリハビリセンターがあります。いよいよ市大病院からそちらに移ることになりました。そして、最終的に診断が行われたとき、癌が転移していることが判明したのです。
明日の自分を信じて希望を持って療養生活をしていた彼です。再びどん底へと落とされたのです。しかし、彼の精神力は強いものでした。そのような自分をしっかりと見つめ、引き続き市大病院で療養する決意を新たにしたのです。次第に病魔に犯されていきます。ここからが彼の力強い証しとなっていくのです。教会の皆さんをはじめ知人の皆さんがお見舞いに行きます。彼は病気には負けていませんでした。むしろ訪れた皆さんを気遣い、笑顔を持って応対するのでした。お父さんは、退院は困難であると判断し、彼が願っていた洗礼を、教会ではなく病院で受けるよう説得します。そして、お父さんは自分も一緒に受けると励ましたのでした。1982年5月30日、病院にて洗礼式が執行されました。そして、一ヵ月後に召天されたのでした。お母さんもその年のクリスマスに洗礼を受けました。一人息子の彼が両親を信仰に導き、天に召されていったのです。彼の証しは「主よ、みもとに」と題して遺稿集を発行しています。大塚平安教会の大きな証しにもなっています。
聖書の言葉
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。」(ローマの信徒への手紙5章3-5節)