鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

日曜日は教会へ!

 今日は日曜日です。日曜日は教会に来て、一緒に礼拝をささげる日として私達に定められています。日曜日はお休みの日であるから、ゆっくり休む日であるとは一般の考え方ですが、教会で神様に心を向け、神様のお心をいただくのです。力を得て、一週間の生活が力強く導かれるのです。その生き方がどんなにか平安の日々でありましょう。体の休息は大切なことですが、何よりも私達の心の平安があること、そこに活力が生み出されてくるのではないでしょうか。
私は休息のため、時にはサウナに入ります。疲れている体にはとても良いと思います。しかし、心にわだかまりがあったりすると、サウナで汗を流しても本当に体が癒えないことがあるのです。神様のお心に生きるときにこそ、真の安らぎが与えられるのです。
教会は開かれた教会として存立していますので、時々見知らぬ方が来られます。お祈りさせてください、と言いますから礼拝堂に案内します。その方は礼拝堂のベンチに座り、しばらくお祈りしています。そして、何かしら晴れ晴れとした面持ちで礼拝堂から出てきます。神様に心を向けることで、重荷が軽くなるのです。もちろん、その方の心の中を聞いたわけではありませんが、本当にさわやかなお顔をされているのでした。昔、神学校を卒業して、最初に赴任した教会は東京の青山教会でした。副牧師として4年間の務めをいたしました。ある日、一人の青年が教会に来られ、お祈りをさせてくださいというのです。礼拝堂に案内し、事務室で執務していると、なんか礼拝堂が騒がしいようです。どうしたのかと駆けつけました。そこには先ほどの青年がおり、何事かと入ってきた私の顔を見て、むしろ怪訝な顔をするのです。何かありましたかと聞く私に、「賛美の歌をささげていました」とすまして言うのです。しばらくお祈りしているうちに、晴れ晴れとして思いになり、神様に賛美の歌をささげたくなりました、と言うのでした。よその教会にやってきて、静かにお祈りをしているかと思ったら、私に言わせれば、けたたましく歌っていたわけです。でもまあ、その青年が神様に心を向けて喜びを与えられたのですから、祝福してあげたのでした。
日曜日、午前10時15分から礼拝が始まります。司会者が「三位一体後第五主日の礼拝を執り行います」と宣言すると奏楽が始まります。オルガンの奏する曲に心を励まされながら、神様に向かう備えが導かれてくるのです。およそ3分前後の奏楽があります。続いて「招詞」があります。礼拝への招きの言葉であります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)との招きの言葉を受止めるのです。そして、一同で讃美歌を歌います。讃美歌は祈りでもあり、祈りを歌にしてささげることであります。その後、聖書が読まれますが、旧約聖書新約聖書がそれぞれ読まれます。聖書の一部の言葉を取り上げて示されるのではなく、聖書の全体を通して示されている神様の言葉を聞くのです。その後、「説教」がありますが、牧師が単に人生訓を語るのではありません。読まれた聖書により、神様のお言葉としての取次ぎをすることが説教なのです。
説教は牧師がお話をしますが、神様のお心を示すものであり、時にはわかりにくいことを語ることもありましょう。会衆に聞いてもらおうと努力するあまり、例話が多くなり、その例話により、あるときは笑い、あるときは涙することもあります。その場合、例話ばかりが心に響き、説教で何が示されたか分からなくなることもあるのです。私の若い頃の説教はそのような類であったと、思い出しては至らぬ姿を反省しているのでした。説教において一度も例話を用いないでお話しすることもあります。ただ聖書のみのお話なのです。つまらない、と思う人は受身的であるからで、つまらない説教を積極的に受止めようとするとき、神様のお言葉が深く浸透するのです。こうして、日曜日に神様に向かうとき、一週間の力と栄養が与えられるのです。「日曜日は教会へ!」

聖書の言葉
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」(詩編100編)