鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

ひとりの存在のたいせつさ

 
 毎年、夏休み前に幼稚園の年長組が一泊保育(お泊り保育)をいたします。今年は7月13〜14日に開催します。このところホテル箱根アカデミーを会場にしています。この施設はもともとキリスト教関係の研修施設でした。クリスチャンアカデミーという団体があり、箱根アカデミーハウスの名の下に研修会や林間学校、修学旅行の宿泊施設として運営していたのです。しかし、経営者が変わり、運営方法も変わりましたが、基本的には従来通りの施設です。この会場を使用するようになってから、もう10年以上も経ています。
一泊保育は家族から離れての宿泊であり、楽しい経験となります。このことについては開催の当日に記すことにいたしましょう。この一泊保育開催にあたり、幼稚園としては重大な過ちをしてしまい、大変申し訳なく存じます。当日の「しおり」を配布しました。グループでまとまって行動するのですが、そのグループの中に一人の園児の名前を書き漏らしてしまったのです。これは大変重大なことでありました。書き漏らしてしまった園児に対してもご両親に対しても本当に申し訳ありませんでした。心からお詫びいたします。
名前と存在についてはつらい思い出を持っております。大塚平安教会は毎年11月の第一日曜日に召天者記念礼拝を行います。当日は教会員として天に召された皆さんの写真を飾り、力強く歩まれた姿を思い起こし、今を生きる私たちが励まされるときでもあるのです。そして、写真と共に召天者の名簿を印刷して配布するのでした。ところが一人の方の写真が飾られませんでした。名簿にもありませんでした。召天したばかりであり、事務的なこともあって忘れられてしまったのです。そういう言い訳はできないのですが、その方が報告されなかったことは事実です。実はその召天された方のお孫さんが礼拝に出席しており、自分のおばあちゃんの写真も名前もないことで、大変ショックを受けたのです。中学生でありましたが、以来、彼女は教会には来なくなりました。このときも大変申し訳なかったことをしたと思いました。しかし、彼女は他の教会に出席し、洗礼を受けたと聞き、ほっとした思いでした。自分の名前がない、あるいは身内の名前がないことで、どんなにか人格が損なわれたことでありましょう。
もう一つのつらい思い出は、掲載してはいけないお名前を発表してしまったことです。神奈川県にある在日大韓基督教会の皆さんと交流会を毎年開催しています。私は開催の世話役をしており、開催にあたりポスターや案内書を作っては、神奈川県内にある106の教会に発送するのでした。打合せ通りの案内書を作ったつもりですが、発送してから連絡があり、交流会でお話しする人は辞退したいというのです。いつまで経っても連絡がなかったので、引き受けていただいたものとして案内書を作ったのでした。お話を辞退しているのにお名前を書いてしまったことは、やはりこちらの間違いですから、すべて作り直して106の教会に再び送ったのでした。このことも本人に対しては大変申し訳なかったと思います。
私は中学に進むとき公立ではなく私立の中学を受験しました。小学校の先生も私立に行こうとしている私と、他にも一人いましたので、放課後に特別に指導してくれました。そして、受験したのですが不合格でした。合格発表日に見にいきましたが、張り出された合格者の中に私の名前はなかったのです。大変悲しい思いをしたと思います。重い足取りで小学校の先生に報告しに行ったことが思い出されます。合格発表の中に自分の名前がないことと、日常の営みの中で、当然あるべき自分の名前がないこととは異なりますが、自分の名前がないことは大きなショックでもあります。自分の存在が否定されたことにもなるからなのです。
このたびの幼稚園の過ちを重大なこととして教職員と共に反省した次第です。一人の存在を見つめ、共に過ごすことを目指している幼稚園なのです。二度とこのようなことが起こらないように戒めたのでありました。

聖書の言葉
「人の子(イエス・キリスト)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書19章10節)