鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

寄せ合って生きる白い鶏、黒い鶏、そしてウサギ…

 
 土曜日は幼稚園がお休みでありますが、朝ひととおり園内を見て歩きます。静まりかえった幼稚園のたたずまいは、元気な子ども達から解放されて一息入れているかのようです。園庭には、今日は動物たちが出ていません。芝生付近に置かれている小屋の中で、つまらなそうに過ごしていました。私の顔を見ると出してくれるのかと期待をもって見つめているのでした。
いつもは欅の木の下あたりにサークルを設け、黒い鶏のチャボとウサギをそれぞれ入れています。白い鶏のウコッケイはいつも放し飼いにしています。この三種の動物達は、仲が良いというより、お互いの存在をよく受け止めているかのようです。白い鶏は放し飼いであっても、大体はサークルの周りにいるのです。周り歩く白い鶏を追いかけるように、サークルの中のウサギが回り歩くのです。ウサギがサークルに鼻先を出すものですから、白い鶏はサークルの周りを歩きながらもウサギの鼻先をちょこんと突っつくのでした。ウサギはすぐに後ろに退くのですが、またサークルの周りを歩いている白い鶏の後追いをするのでした。一方、黒い鶏は彼らにお構いなく、黙々と地面を見つめてはなにやら口にしているのでした。お構いないように見えますが、あれで結構二種の動物の姿を見つめていると思われるのでした。
三種の動物達は、今はそれぞれひとりになっていますが、鶏はそれぞれ相手がいたのです。白い鶏は雄雌で幼稚園の住人になりました。朝になると元気よくコケコッコーと鳴き、一日の始まりを知らせてくれていました。その後、悲しいことに雄は召天しました。黒い鶏は、もともと保育園で飼われていたのです。ところが保育園の周辺の住人が、鶏の鳴き声がうるさいと市議会議員に訴えたのです。保育園は仕方なく飼い主を探していました。それで当園が受け入れることにしたのでした。これも雄雌いたのですが、雄は元気がよく、気をつけないと行方不明にもなりそうでした。それが的中してしまいました。ある夏休みに教師が動物の世話をしているうちに黒い鶏の雄が小屋から脱走したのです。とても逃げ足が速いのです。その教師は一人で捕まえようとしていたのですが、手にあまり、園長の応援を要請しました。二人で追いかけましたが捕まりません。そのうち、黒い鶏は門を出て道路を渡っていました。車が来て危うく轢かれそうになりました。今度は隣の森に逃げ込みましたが、どうしても捕まえることができなかったのです。もう、あきらめようと教師を促しました。森の中を追いかけまわしても捕まえられないでしょう。なぜなら、彼は危なくなると飛び上がり、かなり飛んでかなたに行くのですから。黒い鳥のサークルの上に、出られないように物を置いているのはそのためなのです。さて、ウサギでありますが、以前は三匹いました。それぞれいろいろな事情の中で幼稚園の住人になりました。それぞれ名前がつけられていましたが、今はこのウサギだけですので、名前で呼ばなくなっています。
あの頃は仲間がいて楽しかった、と思い出しているのでしょうか。しかし、今は仲間はいません。しかし、たとえ種類が違っても、いつもそばにいる友達なのです。ウサギにとっていつも鼻先を白い鶏に突っつかれても大事な友達なのでした。他の二種の動物を無視しているような黒い鶏にとっても、大事な仲間であると思っているに違いありません。放し飼いの特権で園庭を楽しく歩き回ればよい白い鶏ですが、いつもサークルのそばにおり、場合によってはサークルの周りを歩き回っているのでした。心を寄せ合っている動物達に、人間として深い示しを得ています。どのような存在であろうとも、受け止め、共に生きるのが人間の歩むべき姿なのです。どうして人間は差別するのでしょう。どうして人間は選り好みをするのでしょう。共に生きる、共に成長する、ドレーパー記念幼稚園の根本的理念であります。

聖書の言葉
「そこでもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)