鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

大きな欅の木の下で

 
 教職員室で執務していると出入りの教材屋さんが来ました。園長の姿を見て、「しばらくです。園長先生、お元気そうで」と言うので、「高齢となって寝込んでいると思ったのでしょ」と。園長先生がおられるので、このカタログ見ていただきたい、と早速商売にかかる。暑い夏を迎えて、子ども達の日よけテントを園庭に出したらどうかと勧める。カタログを見ると、たしかに楽しそうな日よけのテント、パラソル等が紹介されている。「この幼稚園には大きなパラソルがあるのを知っているでしょ」と言うと、気がついたように頷き、それ以上勧めませんでした。
 大きなパラソル、言うまでもなく欅の木です。園庭の半分は日陰になり、まさに緑陰と言えるでしょう。いわばドレーパー記念幼稚園の象徴でもありました。幼稚園のたたずまいを思い出すとき、まず思い浮かべるのが欅の木である、と卒業生や保護者の皆さんから言われるのです。緑の葉っぱを重々しくつけ、堂々と、子ども達にとっては天まで届くようにそびえ、憩いを与えてくれています。この大木は子ども達の憩いの場と共に、多くの小鳥達も憩いの場所でもあるようです。または休憩所でもあるのでしょうか。あたかも子ども達を支え、見守っているかの欅の木は、幼稚園の歴史を刻みながら大きくなってきたのです。ボディーペインティングの時には、太い欅の木のいたるところに子ども達の手形が、色とりどりに跡付けられており、何か痛々しく感じられます。冬枯れの季節は一葉もない姿に寂しさを感じますが、やがて芽がふき、若葉が萌え、緑の将軍に移ろい行く様は、希望と力を与えてくれるのです。
 あまりにも大きくなった欅の木であり、時々枝を払うよう助言されます。しかし、執拗に拒んでいるのが園長でもあるのです。枝が園舎の二階、ベランダ近くまで伸びており、子ども達が手を伸ばして葉っぱを取ろうとします。これは大変危険なので、それらの枝は切り落としています。最小限枝を払いながら現状をとどめているのです。ある時、教会の人が、夏休みになったら、この際に枝を払いましょうと決意してくれました。他の人達も同意し、一緒に手伝うと言うのです。これには仕方ないと思い、ちょっと寂しい夏休みを迎えようとしていました。そしたら、枝を払うと言っていた人が体調を悪くし、少しの間入院しなければならなくなりました。結局、その夏は枝を払うことはなくなりました。しかし、翌年の夏は枝を払う申し出がなくなり、そしてその方は遠くへ転居されたのでした。その方とお別れするのは寂しいことでしたが、枝を払うことから解放されたような思いでもあります。
 緑の将軍もやがて秋を迎えます。自然の移ろいを同じようにいたします。秋の深まりと共に落葉の激しさが増してきます。教職員が朝のお仕事として落ち葉集めが大変になる季節なのです。毎日のように落ち葉をかき集めて処理するのでした。決まって言われることは、落ち葉の整理が大変なので、枝を切り払うと言うことなのです。大変な苦労を園長もよく知りますから、「そうだねー」と同調しているようなことを言うのです。それでいて、枝を払うなんて少しも考えてないのです。落ち葉の被害を言えばいろいろありますが、落ち葉効果だっていっぱいあります。まず、焼き芋大会です。落ち葉だけでは焼き芋はできません。あらかじめ蒸かし芋にしておき、ホイルに包んで落ち葉で焼くのです。本当に焚き火で焼いた焼き芋でもあります。落ち葉は冬の間は植物の寒さよけにもなります。畑を作っている電気屋さんの奥さんが落ち葉をもらいに来ます。お礼にお菓子を置いていかれるのでした。それぐらいで落ち葉効果なんて言えないというのかもしれません。でも、落ち葉の積もった園庭は絵を見つめる思いでもあります。安らぎとぬくもりすら感じられるのです。
 何よりもこの欅の木は子ども達を包み込み、守っている存在でもあります。神様の存在をそのまま表していると言えるでしょう。

聖書の言葉
「両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」(ヨハネの黙示録22章2-3節)