鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

み国を来たらせたまえ(年長組の会堂礼拝)

 
 新しい一週間が始まりました。この一週間力強く歩むことを願っています。どんな歩みが力強いというのでしょう。私たちはそれなりに自分の歩みを方向付けています。それは、単に楽しい一週間というものではなく、この私が人との出会いの中で、良い出会いが与えられることでありましょう。また、自分に与えられている職務が深まるということでしょうか。そうであれば牧師として、園長として、いろいろな人々との出会いを求め、それが祝福となるような出会いを求めて歩きたいと願っています。
今日は年長組の会堂礼拝がありました。いつもは幼稚園ホールで合同礼拝を行います。これは全園児が一緒に礼拝をささげるのです。会堂礼拝は年長組になると、大塚平安教会の礼拝堂で行います。星組さんは静かに礼拝ができるので、だから星組さんだけの礼拝であることをお話してあります。その使命を守って、静かに礼拝堂に入り礼拝をささげるのでした。星組になり、最初の会堂礼拝はオリエンテーションを行います。もっともオリエンテーションをするほどの複雑なものがありませんが、礼拝堂のたたずまいについて説明します。
まず、聖壇の正面には十字架が掛けられています。キリスト教ではイエス・キリストの十字架が中心であるからです。十字架によって私たちの心の奥深くにある自己中心、他者排除の姿が取り除かれるのです。そして、大塚平安教会は十字架と共に梯子が掛けられています。どこかの牧師が、大塚平安教会は大工さんが梯子を忘れていったと言っています。そうではなく、わざわざ梯子をかけたのでした。この梯子は天に掛けられている梯子なのです。天の国、神の国を生きることが目標であるからです。聖壇には講壇があります。神様のお心を示すところであります。そして、聖壇には三つの椅子が置かれています。聖壇の右側の椅子は説教者が座ります。左側は司会者が座ります。そして、中央に椅子がありますが、さてこの椅子は誰が座るのでしょう?と聞きます。「園長先生」と答える中で、「かみさま」と答えてくれる子どももいます。そう、イエス様の座る椅子なのです。目には見えませんが、イエス様も一緒に礼拝をしている事を示されるのです。さらに、聖壇のすぐ前にテーブルが置かれています。何かの物を置く台ではありません。これはイエス様の食卓です。イエス様は十字架に掛けられる前、お弟子さん達と最後の夕食をいたしました。有名な名画「最後の晩餐」にも描かれています。そこでパンを与え、ぶどう酒を与えたのです。キリスト教では今でもパンとぶどう酒をいただく儀式をしています。そのためのテーブルなのです。聖餐台と言っています。
以上の説明を行い、その後は毎回「主の祈り」についてお話しています。子ども達は年長組になると「主の祈り」を暗唱してしまいます。内容について少しずつお話しています。今回は「み国を来たらせたまえ」の祈りについてお話しました。私たちは日本の国に住んでいます。地球上には192の国があるそうです。どの国に住んでいようとも、共に助け合って生きたいものです。何故、戦争があるのでしょう。自分の国のことしか考えないからなのです。大きな国も小さな国もみんなが平和に生きることが大切なことであります。それでは「み国」とはどんな国なのでしょう。日本の国に生きていながら、どうして「み国」を求めるのでしょう。その「み国」は地球上の国を越えた国でもあります。すなわち、みんなが心を一つにして、共に支えあい、助け合って生きるとき、それは「神の国」であるのです。従って、幼稚園は「み国」なのです。みんながいつも一緒に喜び合う園生活をしています。「み国」を実践的に生きているのです。
「これで会堂礼拝を終わります」と言うと、星組さんが口をそろえて「短―い」と言うのです。大体10〜15分間です。「では、もう一度会堂礼拝を始めます」「ええ…」と言う訳です。

聖書の言葉
「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイによる福音書6章10節)