鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

小さな出会い、大きな出会い

 
昨日はさがみ野ホームについて記しましたので、書きたいと思っていた幼稚園の礼拝について書けませんでした。ですから今日の日記といたしましょう。
幼稚園は毎週金曜日に合同礼拝をささげています。年少、年中、年長が一緒に礼拝をささげるのです。黙祷をささげ、さんびかを歌い、聖書が読まれ、園長のお話があります。4月の幼稚園が始まった頃は、それぞれお話が多く、また座っていられなくて駈けずり回る子どももいました。自ずと声が大きくなり、終わってみると喉の痛みすら感じるのでした。しかし、今は礼拝を心得るようになり、静かに礼拝をささげるようになっています。隣同士ふざけていたりすると、後ろに座っている年長のお兄さんやお姉さんが注意する光景も見られます。こうして礼拝の意味を知るようになっていきます。礼拝では「今月の暗唱聖句」を皆で唱和します。教師が聖句を覚えているか聞いてみると、結構覚えているのです。時が経てば忘れてしまうでしょうが、体でしっかりと受け止めていると思うのです。もう30歳を経ている人が大人の礼拝に出席したとき、礼拝では「主の祈り」を一同で祈るのですが、幼稚園時代に覚えたことが蘇ってきたと言いました。体で受け止めていたのでした。暗唱聖句が子ども達の今後の成長の支えとなることを願っています。
ところで、この日の礼拝で幼稚園ともお別れのお友達がいました。そのようなお友達がいると、礼拝において園長が祝福のお祈りをするのです。「神さま、キョウちゃんは今まで一緒に幼稚園で遊びました。今日でお別れです。今まで一緒に遊ぶことができてありがとうございます。これからもキョウちゃんをお守りください。たくさんのお友達と仲良く過ごすことができますように導いてください」と子どもの頭に手をおいてお祈りするのでした。お別れする子どももちゃんと手を組んでお祈りいたします。こうして送った子ども達が心に残っています。
キョウちゃんは実はまだ2歳児でありました。お母さんがご出産であり実家に帰られたのです。その実家が幼稚園に近いこともあり、実は園長夫婦とおばあちゃんとは知り合いでもあり、お預かりすることになったのでした。約二ヶ月であったと思いますが、キョウちゃんはすっかり幼稚園になれ、喜んで通っていたのにさびしい限りです。何日か前の日記にもキョウちゃんについて記しました。門に立っていた園長の手を握り(実は私の人差指)、自分のクラスへと向かったことを記しました。2歳の子どもが園長を怖がりもせず、自分から園長の手を握ってくれことで、園長はとても喜んでいたのです。もっとうれしいことを紹介しておきましょう。お別れに当たりキョウちゃんのお母さんがお礼の手紙をくださいました。「初めのうちは登園時の別れ際に泣いていたのが、『ドレーパー(本人はドライパー)行くの』と言うようになり、平気な顔で手を振るようになり…と、うれしく頼もしくなってきたのに、通えなくなるのはとても寂しいです。きっと息子も同じ思いです。先生やおともだちの話もたくさん出てきて、とても楽しそうでした。また、園長先生のファン(?)らしく、通信物の写真部分を折りたたんで枕の横に置いて寝ていました。」
わずか二ヶ月ですが一人の子どもとの出会いを感謝しています。それは全園児にも言えることですが、幼稚園は出会いの場であると思っています。保育を行い、数年間過ごしてもらうことが幼稚園の目的ではありません。お友達との出会い、先生との出会い、それらの出会いが祝福の人生の基となることを願っているのです。園長としてもドレーパー記念幼稚園における多くの出会いを喜び、生きる支えとしているのです。

聖書の言葉
「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
(マタイによる福音書18章3〜5節)