鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

刑務所で

 
今日は朝8時30分から綾瀬ホームの礼拝があり、10時からは教会でキリスト教伝道集会、午後2時からは八王子医療刑務所教誨がありました。夕刻、家に帰り、今日出会った人々を振り返ってみるのでした。綾瀬ホームで約80名、教会の伝道集会で60名、刑務所で6名の皆さんとの出会いがありました。これらの皆さんは、いずれも神様に向かっている人々なのです。こんなに多くの皆さんが神様のお心を示され、今日も平安を与えられたことでしょう。このブログを開いてくださった人を含めれば150名の皆さんとの出会いがあったのです。
今日は刑務所でのことを記します。刑務所には月に一度行っております。毎月第四木曜日に行っておりますが、今回は第五の木曜日になりました。今日は婦人会主催のキリスト教伝道集会で山北宣久先生をお迎えしたのですが、講演が終わり、食事の最中に失礼して刑務所に赴いたのです。私の連れ合いは、山北先生に失礼であると叱るのです。連れ合いに叱られたことを山北先生に話しましたら、叱られることは喜びですよ、と言われるのです。「うちなんか叱りもしない。それだけ無関心なんです。いつも出かけることが多いもんで」と言われたのでした。
少し後ろ髪を引かれる思いで刑務所に赴きました。午後2時から1時間の教誨です。「教誨」とは「教え諭す」意味です。受刑者に接することを教誨と言うのです。今日は6名の教誨希望がありました。終わると日誌に教誨内容を記してきますが、他の教誨師と共通の日誌ですので、他の教誨内容を読むことができます。八王子医療刑務所は10名の教誨師が入っています。牧師、神父、宮司のほかはお坊さんです。もともと教誨に取り組んだのは仏教のお坊さん達であったのです。そういう意味でもお坊さん達の勢力は強いと言えるでしょう。せっかくキリスト教の牧師として入ることができたので、何とかして続けたいと思っています。他の教誨内容を見ると、大体が2、3名の教誨希望です。教誨は受刑者が希望して受けるので、義務ではありません。その中でキリスト教教誨を希望する人が6名もいるのですから喜びと言えるでしょう。6名の皆さんは一生懸命に聖書のお話を聞いてくれます。都合で来月はお休みになることをお知らせすると、とても残念がります。月に、たったの一回の教誨を心待ちにしてくれているのです。
今日は聖霊の導きについてお話しました。聖霊の導きは誰にでも与えられているのです。しかし、私たちは自己満足が強いので、聖霊の導きがあるのに、自分の思いを優先してしまいます。刑務所に服役しなければならなくなったのは、聖霊の導きを無視して自分の思いを満足させたからなのです。その時(犯行)、聖霊の導きがあったのです。しかし、自分の気持ちを満足させることが勝ってしまったのです。聖霊の導きがあるから、皆さんは聖書のお話に耳を傾ける気持ちになったのです。自分に働く聖霊の導きに聞き従う姿勢があるなら、社会復帰した時、必ず祝福の人生となるのです。以上のようなお話をしました。
「先生、今日は終わりのお祈りをしないのですか。」と言われてしまいました。終わるときには讃美歌312「いつくしみふかき」を歌い、私がお祈りをささげ、一同で主の祈りをささげます。讃美歌を歌い、お祈りを飛ばして主の祈りを唱えようとしました。一人の受刑者が私の祈りがないことを指摘したのでした。私のささげる祈りも、皆さんにとっては希望になっているようです。
最高裁で高裁に差し戻した事件がありました。犯人は教誨師によって、イエス・キリストの十字架の救い、贖いを示され、イエスの十字架によって赦されている、と言ったとのことです。テレビで報道されていたことの又聞きですが、まったく間違った考え方です。犯した罪は決して赦されない。従って、法に裁かれなければなりません。イエス・キリストの十字架の救いは、私たちの根本的な姿、すなわち自己満足・他者排除からの救いなのです。この姿は、人間は誰もが持っています。主イエス・キリストはご自分の十字架の死と共に人間の奥深くにある自分中心の姿をも滅ぼされたのです。十字架を見つめることによって、私たちは新しい姿へと導かれていきます。しかし、犯した社会的犯罪が十字架によって赦されることはないのです。犯した本人が十字架を仰ぎ見続けるときに、新しい姿へと導かれていくのです。
社会的犯罪がありますが、私たちは神様の前に罪人として立たなければならないのです。いつも他者を排除しているからです。真に罪が赦されるために十字架を仰がなければならないのです。私たちが神様に向かう姿勢がある限り、明日もまた祝福の一日となるでしょう。

聖書の言葉
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(ヨハネの手紙Ⅰ、1章9〜10節)