鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

悪の霊と闘いつつ

 
今日は日曜日です。日曜日は神様に礼拝をささげる日です。そして、教会に集う皆さんのお交わりが深まる日なのです。朝9時、子どもの教会の礼拝が始まります。今日も子ども達がお父さんやお母さんと共に集まってきました。最近は子どもだけ、一人で出席することがなくなりました。小学校上級や中学になれば、兄弟で出席する子どももいますが、今の世情もあり、子どもだけの出席は少ないのです。それだけに保護者の皆さんのご理解が必要なのです。お子さんが教会学校に行きたいというので、一緒に出席してくださる保護者の皆さんには心から感謝しています。9時30分まで礼拝を行います。今日は幼稚園の主任の平田さんがお話をしました。先日、職務中に転倒して骨折をしてしまいました。右の手首であり、ギブスをしています。従って、幼稚園は園長命令で休んでもらっています。そうでないと出勤してしまい、幼稚園の仕事をしてしまうのです。そうなると私は鬼の園長といわれるようになるでしょう。ギブスをしているのに働かせている、なんて酷い園長でしょうと。今日はお話をする日なので、本人の意思を聞きました。口は達者なので大丈夫というわけです。右手を吊りながらですが、礼拝のお話をしていただきました。礼拝後は幼稚園のゆり組の教室に移動し、楽しいひとときを持ちます。主の祈りを手話で表すことを学んでいました。第一日曜日は誕生祝福の日であり、お茶をいただきながらの集いとなります。
子どもの教会が終わると10時15分から大人の礼拝が始まります。大塚平安教会はだいたいが50名前後が出席し礼拝をささげています。クリスマスやイースターになると80名、100名と出席します。 礼拝は讃美歌を歌い、聖書が読まれ、説教があります。讃美歌は単に歌ではなく、お祈りでもあるのです。お祈りを曲に乗せて神様にささげるのです。聖書は神様のお言葉として聞きます。そして、説教は神様のお言葉の説き明かしであります。
今日の説教題は「悪霊追放」でした。悪霊は悪い霊が浮遊しているのではなく、私たちの中にある自分中心の姿であると聖書は示しています。私たちはその悪い霊と共存しながら生きているのです。私たちが本当に悪霊追放を願うなら、主イエス・キリストの十字架を見つめなければならないのです。イエス様の十字架は私たちの自分中心の姿を、ご自分の死と共に滅ぼされたのです。十字架を見つめ、イエス様は私の悪い姿を滅ぼされたと信じて生きるのがキリスト教の信仰なのです。悪霊は私たちにとても楽しい世界を与えます。その世界に甘んじていたいという私たちの気持ちがあるということです。悪霊追放に生きなければ、私のゆえに悲しむ人がいることを知るべきなのです。今日の説教として示されました。
悪霊追放の人生を決心し、今日の礼拝で洗礼を受けた人がいました。新たなる信仰の人生に祝福があるよう祈りました。さらに今日は、他の教会で洗礼を受けていますが、当教会の皆さんと共に悪霊追放の人生を歩む決心をされ、転入会された人がいました。礼拝後にお二人のお祝いと歓迎の集いをしたのでした。
お祝いの集いが終わりますと、今度は子どもの教会の担当者会です。今までは教会学校の教師と称していましたが、子どもの教会として名称を変更し、教師とは呼ばず、担当者と呼ぶことにしました。今日の担当者会では夏のサマーキャンプについて検討しました。今までは夏期学校と称していました。とにかく教会なので学校という言い方を改めたのでした。サマーキャンプの案内は7月9日の日曜日に配布する予定です。
こうして日曜日の日程が終わると、寄る年波に勝てず、つい横になってしまいます。横になりながら今日も一日祝福の日であったと思いました。
教会の日程を過ごしているとき、実は幼稚園ではお父さん達が「幼稚園をきれいきれいにする集い」を持ってくれていました。教会の集会の合間に覗きに行きましたら、お父さん達がエアコンを掃除してくれたり、窓ガラスの高いところを掃除してくれたりしているのです。普段幼稚園の先生達ができないことをしてくれました。本当にありがとうございました。もちろん日ごろのお母さん達のご協力を感謝していますが、お父さん達のご協力を心から感謝しております。お子さん達もお父さんが幼稚園のお仕事をしているので、とても頼もしく思ったでありましょう。また、誇りが増し加わったのではないでしょうか。

今週の聖句
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
(マタイによる福音書11章28節)
 一つの詩を紹介しましょう。「あしあと」と言う題です。「ある夜、私は夢を見た。私はイエス様と共に、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つはイエス様のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばん辛く、悲しい時であった。このことがいつも私のこころを乱していたので、私はその悩みについてイエス様にお尋ねした。『主よ、私があなたに従うと決心した時、あなたは、すべての道において、私と共に歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私のいちばん辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか。私にはわかりません』。するとイエス様はささやかれた。『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあな
たを背負って歩いていた』」。
いかがでしたか。この詩を説明する必要はありませんが、ひとこと付け加えておきましょう。私たちはともすると自分一人が苦しみ、悲しんでいると思い込んでいます。今までの人生を振り返るといろいろな苦しみと悲しみがよみがえってくるのです。自分で人生を切り抜けてきたと思いますか。残してきたあしあとを見てみましょう。一つしかないあしあとがいくつか見られるのです。私たちは苦しい時、悲しい時、いつも神様に心を向けたのです。その時のあしあとは一つしかないのです。イエス様がいつも背負ってくださっていたのです。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様は私を招いてくださっています。