鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<285>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<285>
2014年9月17日「頁をめくる楽しみ」


聖書の言葉
主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ、主の霊が集めたものだからである。
イザヤ書34章16節)



 iPadなるもので遊んでいる。iPadはメールもできるし、写真もきれいに写せるし、いろいろなデータを楽しむことが出来る。ただ電話はできない。電話は携帯電話があるのだから必要ない。パソコンをいつも使っているので、iPadはあまり現実的に使わない。しかし、パソコンにはない良い活用がある。パソコンに入っている写真はカメラで写したものをパソコンにいれているのである。しかし、iPadそのものがカメラとして使えるので、データとしての写真はきれいに保管されている。しかも、指で大きくしたり、小さくしたりできるので、楽しみが増すというもの。散歩に持参しようとしたが、カメラとは異なり、結構重いのでやめておいた。しかし、散歩コースの風光明媚な状況を写しておきたいと思っているので、いずれは持参することにしている。メールもできるので、携帯電話のメールより便利かもしれない。携帯電話のメールは時々利用しているが、あの小さいボタンで文書をつくることは、私にとっては至難の業なのである。iPadでメールが出来るのであるから、文書を作成することが出来る。しかし、一時的な文書を保存しても、際限なく文書を保存できない。そのためには文書保管のタンクが必要であるという。だから文書作成は期待していない。まだiPadをいじり始めたばかりなので、込み入った機能、利便性等多多あるようであるが、徐々に学んで行くことにしよう。
 まだ使いこなしている訳ではないが、だいたいの傾向がわかってきた。メール、写真、諸データ等、使い道がしめされてきたが、もう一つ、読書の楽しみがある。いろいろな本をダウンロードすることにより、読書の楽しみが増えるのである。本は有料と無料があり、昔ながらの本はほとんど無料である。今までにダウンロードした本は、内村鑑三「デンマルク国の話」、岡倉天心茶の本」、幸田露伴五重塔」、夏目漱石「こころ」、「吾輩は猫である」、ドストエーフスキイ「カラマゾフの兄弟」等である。いずれも無料であるからありがたい。まだまだたくさんあるが、とりあえずこのくらいにしておいた。10月半ばから三ヶ月間、またスペイン・バルセロナに赴くので、滞在中に読もうと思っている。いずれもすでに読んではいるが、大昔に読んでいるので、再び読むのも良いであろう。
 2011年4月から約二ヶ月バルセロナで滞在したが、そのときは井上靖著「孔子」を持参して読んだ。読んでしまったので、羊子の家にあった塩野七生著「ルネサンスの女たち」、「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」を読んでいる。2012年9月からも二ヶ月間バルセロナに滞在したが、そのときは五木寛之著「親鸞」上下巻を持参して読む。そして2013年3月から三ヶ月間マレーシアで生活するが、そのときは立松和平著「道元禅師」上中下巻を持参して読んだ。二ヶ月、三ヶ月も滞在するので、すぐに読み終えてしまい、もっと持参すればよかったと思ったのであった。しかし、手荷物の重量制限があり、そんなには持参できない。ところが、iPadを持参していれば、いくらでも本が読めると言うわけである。私にとって、iPadの本の機能は何よりの喜びである。
 電子書籍なので、今まで本に親しんでいた所作が出来るのか、という疑問がある。たとえば感銘深く読んだ部分には鉛筆等で書き込みをしたり、ラインを引いておいた。電子書籍もそれらが出来るのである。あるいは、しおりを挟んで、今日はここまでの読書にする場合にも、「しおり」機能がある。読書は頁をめくりつつ進める喜びがある。時には指先をなめて頁を繰るのである。電子書籍を見つめながら、頁を繰るとき、つい指先をなめてしまうのである。紙の感触を味わいながらの読書も楽しみであった。そして、常に本の重み、厚さ、装丁等を喜びながら手にしていた愛読書である。そういう感触としての喜びはない。ドストエーフスキイ著「カラマゾフの兄弟」はかなりの分量であり、厚さもあり、頁を繰りながらの読書の喜びがある。電子書籍は内容をそのまま提供してくれるのであるが、感触がないままに読み進めることの味気無さというものがある。しかし、前記したように、外国で長期滞在する者には、これほどありがたいものはない。iPadがあれば図書館を持参しているようである。大げさな表現であるが。



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