鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <90>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<90>
2012年4月27日 「常に幸いに生きるように」 


聖書の言葉
我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
申命記6章21-24節)


 
このところ天候が不順であり、朝起きると、まず空を仰ぐ。今日は朝から曇天で、午後からの散歩、大丈夫かなあ、なんて思いながら朝の務めするのである。今週の月曜日は一日中雨降りであり、ベッドの手直しをしたことについては記している。翌日の火曜日は、朝から良いお天気で、だから昨日の分も含めて早めに散歩に出かける。いつもは午後3時、4時頃に出掛けるのであるが、2時には出掛けたのである。この日は野島を徘徊するつもりであった。
 最近は歩くコースが固定するようになっている。追浜に出て、天神橋から野島方面に向かい、そこから金沢八景駅、そして六浦駅を見ながら帰って来るのである。これだけで1万歩以上は歩くことになる。追浜に出て天神橋に向かって歩くうちにも、昔の小さかった頃が思い出される。もともと私が生まれたのは横須賀市浦郷町で、鉈切という地名であった。今は夏島町になっており、私が生まれた付近は日産の会社が広い範囲で所有している。家からすぐ近くに寺があり、六浦に転居してもしばらくはその寺であった。しかし、その後、安針塚にある寺に改葬したのである。そちらの寺は先祖が発掘したとかで、もともと先祖が関わっていたからである。六浦に転居してから、父に連れられて鉈切の寺に墓参りに行く。父は歩きながらも平気でプップッと音をさせるので、恥ずかしくて離れて歩いたことなどを思い出しながら散歩するのであった。それにしても、ひとたび家を出て、神学校に入り、その後牧師の道を歩み、その後約50年ぶりに再び育った家に帰って来る、珍しいケースである。多くの場合、故郷に帰ることなく、異なる場所で晩年を迎えるのであるが。その意味でも、今の境遇を神様のお導きとして感謝しているのである。




野島の海岸から見える八景島シーパラダイス



三人の子供たちと魚釣りをしたところ



松林の中にキャンプ場、バーベキュー場がある



青少年研修センター



 いつもは野島の夕照橋を渡り、野島に入るのであるが、少し歩くと帰帆橋があり、そこを渡ると野島から離れることになる。この日は夕照橋を渡り、そのまま野島の中心へと向かったのである。やがて海岸に着く。ここは遠浅海岸で、昔は海水浴、アサリ堀、魚釣りをして遊んだものである。そして、結婚して三人の子供たちと共に魚釣りやアサリ堀に来たものである。その頃は大塚平安教会に赴任したばかりで、子供達もまだ小学生、幼稚園の頃であった。時々実家に来ては子供たちと野島に遊びに来たのである。魚釣りは、子供達は餌をつけられないので、それぞれの釣りざおに餌をつけるのであるが、すぐに餌を食べられてしまうので、一時暇なく餌をつけ続ける。結局、私自身の釣りを楽しむことがないというわけ。海岸に立ちながら、そんな昔のことを思い出していた。自分が幼かったころの思い出、そして今度は子供たちと共に過ごした思い出、そして今、人生を振り返りつつこの場に立っている自分を見つめるのであった。すぐ近くに八景島シーパラダイスが見える。そして海岸線を見ると海の公園として整備されている砂浜が見られる。風景が変わってしまった野島海岸であるが、65年前と変わらない野島に立っているのである。
 野島は松林の中にキャンプ場、バーベキュー場、青少年センター等があり、野外活動の場が整備されている。おそらく5月の連休には賑わうのであろう。昔は野島山には昇れなかったが、今は公園として整備され、上からの眺望は格別である。展望台に上ると、東京湾が一望で、千葉県の山並みも見ることができる。こうして野島を徘徊しながら昔を偲び、家に帰ったのは6時頃であった。1万5千歩も歩いたことになる。昨日は歩かなかったので、少しは挽回したことになる。散歩に出て歩くうちにも、自ずと昔を思い出すのである。昔を思い出し、今の恵みを感謝するのは旧約聖書信仰告白であった。モーセは聖書の人々に昔から今に至る神様の導きを信仰の告白として朗唱することを命じたのであった。昔を偲べば、今に至る神様の恵みを示されるからである。