鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <4>

 

  隠退牧師の徒然記 (2011年6月1日〜) <4>
2011年10月7日「今日一日を見つめつつ」
 
聖書の言葉
明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイによる福音書5章34節)



ブログの再再再会であるが、いつまでも再開のイントロダクションをしているようでもある。今までもブログを書き、現況に関連して過去のことを引き合いに出しながら書いてきた。歴史的なことは書きとめておきたかったからである。だから、今までのブログを読めば、大方、大塚平安教会の30年間の歩みが記されていることになる。再びブログを書くことになっても、結局重複することが多いと思う。違うことは現役のときに書いたものと、無任所となって書いたものと、隠退して書いたものと言うことになる。やはり考え方が異なると思う。だから、重複して書くことにためらうことなく、今の立場で書きたいのである。




スミさんの好きな庭いじり。
ゴーヤとかハヤトウリを収穫する楽しみを持ちつつ。



「徒然」とは、「変化の無い環境で感ずる退屈」であり、「手持ち無沙汰」との意味である。そう、毎日退屈な日々を過ごしている。と言うより、のんびりと長閑な生活を喜んでいるということが本音である。いつも連れ合いのスミさんと、特に夕食をしながら、「本当にのんびりとした生活だね」と語りあっている。自動車の音も聞こえないし、救急車の音も聞こえないし、近所はあるものの夜ともなれば人声は無い。今までは朝早かろうが、夜遅かろうが電話がある。職務上のことなので当然なのであり、その生活が当たり前のこととして過ごしてきたのであった。集会があれば、スミさんは最後のお一人が帰られるまでお付き合いしているのである。そんなときは一人で先に食事をするのである。幼稚園でも、夜8時を過ぎても仕事をしている教職員がいる。なんとなく気になりながら食事をしたり、机に向かっていたりしたのであった。一応、戸締りや見回りをするからである。




いたるところに飾られている楽しい思い出。
いつまでも思い出を語り合っているわけ。



退任記念としていただいたプレーヤー、コップ、花瓶等。


そのような生活を30年間して、子供たちの成長もあるが、とにかく教会内にある牧師館の生活を感謝しつつ過ごしたのであった。昨年、4月から六浦の生活が始まり、あまりの静けさに、かえって落ち着かないのであった。しかし、今は静けさの生活が染みいり、感謝と喜びを持ちつつ過ごしている。大塚平安教会在任中は朝5時には起床していた。7時に朝食をとり、8時30分からは幼稚園の教職員礼拝に臨む。その後は登園する園児のお迎えを門に立って行うのである。木曜日と金曜日は朝から綾瀬ホーム、さがみ野ホームに向かう。とにかく朝から次々にしなければならないことがあった。今は7時過ぎに起床している。特別にすることが無いからである。朝8時にNHKの連続ドラマを食事しながら見る。その後はゴミ捨てを行う。月曜日はプラゴミ、火曜日と土曜日は燃えるゴミ、水曜日は缶・瓶・ペットボトルの収集日である。資源ゴミは第二と第四月曜日が収集日である。10時頃になるとスミさんが病院に行き、リハビリを受けているので、途中まで送り迎えをしている。途中からはバスで病院に行っている。敬老特別乗車証を横浜市からいただいているので、すべてのバス、市営地下鉄、金沢シーサイドラインは無料となる。無料と言っても、年間4000円の会費を払っている。しかし、毎日バスを利用しているので遥かに得になる。いずれ私もそのパスを得ようかと思っている。ただ、今はあまり利用価値が無い。最近思うことは、そろそろ車の運転を辞めようかと思っているのである。しかし、今はスミさんの送迎があり、スミさんと買い物に行くので車は必要であるが。午後からは読書に当てている。午前中はパソコンの作業をしている。説教の準備、10月30日に薬円台教会の伝道集会があり、そのお話の準備等、今後のお務めの準備の時としている。
そろそろイントロダクションを終えなければならない。以上のような現在の状況にたってブログを書くことになる。毎日徒然に過ごしているので、毎日ブログを書くほどの出来事は無い。たがら今までのように毎日毎日は書かないであろう。徒然の中で変化があり、あるいは思いついたときに書くことにとどめることにしている。過ぎ去ったことにも思いを寄せて書くこともあろう。鈴木伸治が生きた姿を書き残しておきたいのである。



リスのシュータまでのんびりくつろいで。